内容紹介

Poey, Delia『イグアナ・ドリームズ』(Harper Perennial)、Tatum, Charles M.『ニュー・チカーナ/チカーノ・ライティング』(Univ of Arizona Pr)

  • 2023/12/14

ボーター文学最前線

叫びから内なる声へ「新しいチカーノ文学」の語り口


「新しい」とは何を意味するのだろうか。たとえば『イグアナ・ドリームズ』という短篇集に「ニュー・ラティーノ・フィクション」というサブタイトルが添えられている(1)。だが編者による解説は、「ニュー」の意味について触れてはいない。ただ、あえて言えば、それまで個々のエスニックグループの作品を集めたアンソロジーはあっても、それらを「ラティーノ」としてまとめて一冊に収めたアンソロジーはなかったと述べているので、その点が新しいことは確かだ。あるいは作者の顔触れの大部分が若い。つまり世代が新しいのも特徴といえる。それならその文学も新しいのだろうか(ALL REVIEWS事務局注:本稿執筆時期は2005年)。

Iguana Dreams: New Latino Fiction / Poey, Delia
Iguana Dreams: New Latino Fiction
  • 著者:Poey, Delia
  • 出版社:Harper Perennial
  • 装丁:ペーパーバック(400ページ)
  • 発売日:1992-09-23
  • ISBN-10:0060969172
  • ISBN-13:978-0060969172

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同じことが、グループをチカーノに絞った三巻からなるアンソロジー『ニュー・チカーナ/チカーノ・ライティング』についても言える(2)。第一巻の序文を読む限り、やはり「ニュー」の意味を強調しているわけではない。だがそこでは、かつての政治的「叫び(グリート)」が複数の文学的形式や声に分化していることや、単一文化に支配されてきた社会の抱える問題が提示されていること、とりわけ作品の質が向上し、女性作家の作品が増えたことなどが特徴として挙げられている。また収録された作品が先入観や伝統に対して戦いを挑み、新しい形式や言葉を考案し、人種・階級・ジェンダーの差異に疑問を突きつけ、何がキャノンで何が周縁的なのかについて定義をし直しているという。これらの特徴は『イグアナ・ドリームズ』にもかなり当てはまる。つまりどちらの場合もその特徴こそが新しさを示しているのである。

New Chicana/Chicano Writing, 1 / Tatum, Charles M.
New Chicana/Chicano Writing, 1
  • 著者:Tatum, Charles M.
  • 出版社:Univ of Arizona Pr
  • 装丁:ハードカバー(185ページ)
  • 発売日:1992-05-01
  • ISBN-10:0816512965
  • ISBN-13:978-0816512966

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その特徴は、チカーノ文化にルネッサンスをもたらした運動〈モビミエントMovimiento〉の世代の特徴とは明らかに異なっている。一九六〇年代から七〇年代初めに活躍する世代は、アフリカ系アメリカ人の公民権運動に触発され、集会やデモを繰り広げて、文化的アイデンティティの確立を目標に活動したのだった。彼らは革命キューバに刺激される一方、ベトナム反戦運動を行ってもいる。彼らの作品に見られるベトナムという言葉がそのことを物語っている。

たとえば〈モビミエント〉を象徴するロドルフォ・ゴンサレスの長篇叙事詩「おれはホアキン」(六七)に早くもベトナムという言葉が現れる(3)。

    おれの血は汚れのないまま
    アラスカの島々の霜が下りた丘を流れ、
    ノルマンディーの人体が撒き散らされた海岸、
    韓国の無縁の土地
    そして今は
    ベトナムを流れる。

この作品が書かれた時期に活躍したのは彼のほかにアベラルド・デルガド、アルリスタ(アルベルト・ウリスタ)、リカルド・サンチェス、セルヒオ・エリソンドら、主に社会派の詩人たちだった。彼らはアングロ文化への同化を拒み、闘争や運動の記録あるいは報告となる作品を書いたが、それを語るのは個人というよりはむしろ集団の声だった。彼らは共同体の代弁者という役割を担っていたのだ。そこではしばしば古今の歴史上の人物、抑圧されたマイノリティの解放闘争の先頭に立ったヒーローが召喚される。とりわけメキシコの壁画に霊感を受けているであろうゴンサレスの叙事詩には、サバタやビリャらメキシコ革命のヒーロー、さらに遡って独立戦争のヒーローや征服者コルテスまでが登場している。

こうした革命や闘争にまつわる言説にしばしば使われる原理にマチスモすなわち男性主義があるが、〈モビミエント〉の場合も例外ではない。たとえば「おれはホアキン」に次のような一節がある。

     ここにおれは立っている
     裁判所のまん前に、
     罪人として
     わが有色人種の全き栄光のために
     絶望の刑に処せられようと。

     ここにおれは立っている、
     金こそないが、
     誇りに満ちつつ凜として、
     男らしさ(マチスモ)を帯び勇ましく、

     度胸には不足なく
     それに
     精神力と信仰をたっぷり身につけて。

この一節では「男らしさ」と訳したが、マチスモについては興味深い考察がある(4)。それによるとメキシコで好ましい男性イメージとしてマチョが誕生するのは一九四〇年代にメキシコ革命が保守化してきた頃だという。だとすれば、そのイメージが後にメキシコ文化と結びつきの強い〈モビミエント〉に移入されたと見ることができるかもしれない。さらにメキシコでは革命の制度化、大衆の国民化が目指される中で、社会の混沌状況に対して防波堤となる家族における保護者としての家長すなわち男性というイメージが作られたのだ。〈モビミエント〉が進展する中で、チカニスモすなわちチカーノ主義が称揚されるとともに、それは構築された原理として独り歩きするようになった。たとえば文学作品に関しても、それがチカーノ的であるか否かが評価の基準になるという事態が生じたのだ(5)。それはルネッサンスが終り、〈モビミエント〉が制度化し保守化したことを意味する。この運動は世界的な若者の叛乱の退潮と同様、べトナム戦争の終結とともに衰えていくが、その重要な原理と思われるマチスモ自体が制度化し保守化したメキシコ革命の産物であるとすれば、少なくとも制度化することはある種の必然だったのかもしれない。マチスモはやがてジェンダーに意識的になった新世代の女性たちから批判されることになるが、元来が本質ではなく構築されたものであるのなら、当然の結果とも言える。

ところで「新しいチカーノ文学」において政治的パトスは弱まり、関心は集団の命運から個人の内面へと移っていく。この現象は六〇年代〈ブーム〉以後のラテンアメリカ文学の場合に似ているとも言える。いずれの場合も社会的関心が消えたわけではないが、現れ方は変化している。次に引用するのはそんな作品の例である。

詩の蹂躙について(6) ディェゴ・ヴァスケスJr.
僕の赤ん坊に
初めて読んでやったのは
―彼女はまだ生後六ケ月だった―
ネルーダが彼の
イスラ
ネグラの
家から
死を迎えつつ
連れて行かれた
という記事だった。
ドン・パブロは大声で叫び
マティルデは
そんな
彼を
見るのは
これが
初めてだと
言った。

New Chicana/Chicano Writing 3 / Tatum, Charles M.
New Chicana/Chicano Writing 3
  • 著者:Tatum, Charles M.
  • 出版社:Univ of Arizona Pr
  • 装丁:ペーパーバック(164ページ)
  • 発売日:1993-08-01
  • ISBN-10:0816514267
  • ISBN-13:978-0816514267

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巻末のプロフィールが不完全なため、作者についてはミネソタ在住で、パブリック・リーディングやラジオで詩の朗読を行うこと以外詳しいことは分からない。詩集は出ていないようだ。一度アマゾンに同姓同名の作家の情報が載り、小説を書いていることが判明したが、同一人物かどうか確認することができなかった。この作品がいつ書かれたのかは分からないものの、作者は一九七三年というまだ大過去には収まらないネルーダの危篤という出来事を回想していることになる。あえてこれを取り上げたのは、六〇年代の語り口とは完全に異なるからだ。ネルーダにはたったひとつ戯曲がある。それは「ホアキン・ムリエタの輝きと死」という作品で、カリフォルニアを徘徊したメキシコ出身の盗賊を主人公にしている(7)。ヒーローを次々に召喚するロドルフォ・ゴンサレスの「おれはホアキン」にもむしろアンチヒーローと呼ぶべきこの人物の名は一度ならず現れ、叙事詩のホアキンという名の由来のひとつになっているかもしれないところから、ゴンサレスならば叙事詩あるいはそうでなくても何かしら熱い詩を書いていただろう。

しかし、ヴァスケスJr.の作品にも社会的関心が窺えないわけではない。ただ対象との距離の取り方、そして声の調子が違うのだ。ことによるとロドルフォ・アナヤのように世代としては〈モビミエント〉に重なるが、作風はあとの世代に属するということもありうる。彼がネルーダの作品を読んでいるとすれば、メキシコの壁画に喩えられる叙事詩集『大いなる歌』ではなく、むしろオード集に親近感を抱いているのではないだろうか。それは詩形がいずれも短い行からなっているところから想像するのだが。あるいはメキシコの「コリード」の短詩形に対して親近感があるのかもしれない。いずれにしても記録や報告を叙事詩の形で語る時代は去った。にもかかわらず、大きな出来事を内なる声でそっと反芻するところに、社会的関心の継承を垣間見ることができないだろうか。


(1)Delia Poey & Virgil SuarnZ(ed.), ‟Iguana Dreams New Latino Fiction”, Harper Perennial, NY, 1992.
(2)Charles M. Tatum(ed.),‟New Chicana/ chicano Writing 1”, University of Arizona Press, Tuscon & London, 1992, p.xiv.
(3)野谷文昭「引き裂かれたアイデンティティ――〈モビミエント〉とチカーノ文学」、「立教アメリカン・スタディーズ」第25号、立教大学アメリカ研究所、二〇〇〇年三月。
(4)林和宏「ゆらぐマチスモー「転換期」メキシコにおける男性アイデンティティ」、「ラテンアメリカ・カリブ研究」第11号、つくばラテンアメリカ・カリブ研究会編集部、二〇〇四年五月。
(5)Juan Bruce-Novoa, ‟Retrospace: Collected Essays on Chicano Literature", Arte Publico Press, Houston,Texas, 1990, p.163.
(6)Tatum(ed.), ‟New Chicano/Chicano Writing 3” University of Arizona Press, 1993, p.149.
(7)Pablo Neruda, ‟Fulgor y muerte de Joaquin Murieta”,Obras Completas de Pablo Neruda, Tomo III, Losada, BsAs, 1973.ネルーダは南米にまで名を馳せたこの盗賊をチリ出身と見なしている。
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初出メディア

現代詩手帖

現代詩手帖 2005年5月号

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