書評

『ある遭難者の物語』(水声社)

  • 2023/10/23
ある遭難者の物語 / ガブリエル・ガルシア・マルケス
ある遭難者の物語
  • 著者:ガブリエル・ガルシア・マルケス
  • 翻訳:堀内 研二
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(139ページ)
  • 発売日:1992-07-01
  • ISBN-10:489176273X
  • ISBN-13:978-4891762735
内容紹介:
1955年2月のある日,荒天下のカリブ海で、コロンビア海軍の駆逐艦から数名の水兵が海に落ちた。全員が絶望視されていたにもかかわらず,10日後、1人の水兵が瀕死の状態で母国に漂着した。太陽に焼かれ、鮫と闘い、友人の霊と語り、筏に自らを縛り付け、人喰い人種の島を恐れ、巨大な海亀に出会いつつ、極限的な飢えと渇きの果てに祖国に生還した彼を待ちうけていたものは…。
ガルシア=マルケス自身の言葉で言えば、本書は、〈文学的もしくは小説的ルポルタージュ〉である。

ピガフェッタの記録『最初の世界一周航海』を読むようなつもりで主人公の語る話に耳を傾けた方が、自然の驚異を満喫し、臨場感を味わいながら、この幻想的漂流譚を楽しめるだろう。

ガルシア=マルケスが愛読書として、『オイディプス王』やデフォーの『疫病流行記』とともに必ず挙げるのが、マゼランの探検隊の数少ない生き残り、アントニオ・ピガフェッタによる記録、『最初の世界一周航海』である。これには邦訳(長南実訳)があり、岩波の「大航海時代叢書」に収録されているが、彼はこの本がよほど好きだと見えて、インタビューや対談ばかりでなく、昨年末のノーベル文学賞受賞記念講演の中でも、真っ先に引き合いに出している。

『ある遭難者の物語』を読んだときに思い浮んだのが、ピガフェッタと『最初の世界一周航海』のことだった。ガルシア=マルケスはその記録の南米に触れた部分を、厳密な記録(クロニカ)でありながら、想像力の産物のようだと言い、さらにその書に今日のラテンアメリカ小説の萌芽が窺えるとさえ言っているが、事実、それはピガフェッタの鋭くかつ柔軟な眼と生き生きとした描写により、文学作品と呼べるほどである。一見非現実的な事物を現実のものと信じ切って淡々と報告するその語り口は、ガルシア=マルケスが意識的に使っている方法を想わせる。ピガフェッタの記録では、一人称複数形が用いられているが、仮にこれを、コロンブスのように一人称単数形で綴れば、おそらく、『ある遭難者の物語』の文体と似たものになるだろう。

ガルシア=マルケスが最初から自分の作品として発表していたら、「物語」ではなく「記録」としていたにちがいないこの作品は、しかし実在の遭難者自身による談話をまとめたもので、初めは彼が記者をしていた新聞紙上に遭難者の署名入りで発表され、『百年の孤独』出版後の一九七〇年にガルシア=マルケスの自作として刊行された。その間の経緯は、邦訳では後になっている前書きの中で彼自身が説明している。

ただし、物語が十四日間連続で新聞に発表されたとあるのは不正確で、実際には合計四日の休載日があり、また彼の名前がこの作品と一緒になって現れるのも、彼の言葉に反して、本書が最初ではない。十四章が別冊の形で一挙掲載されたとき、編集者として彼の名が明記されている。が、本誌二月号でも触れた、彼のジャーナリズム作品集によって確かめることができるのだが、本文は新聞に発表されたものと同じで、とくに改作された跡はない。そして本書はその性格上、書誌においては普通ルポルタージュとして扱われている。もっとも、オスカー・ルイスの作品と通ずるところのある、ガルシア=マルケス自身の言葉で言えば、〈文学的もしくは小説的ルポルタージュ〉のひとつではあるが。

一九五五年二月二十八日、コロンビア海軍の駆逐艦の乗組員のうち八名が、カリブ海に落ちて行方不明になり、全員死亡と公式発表される。ところが、実際には生存者がひとりいた。しかも船は密輸品を積んでいたのだ。新聞では「我が冒険に関する真実」という題で掲載されたこの物語が事実であることを保証するための仕掛けが、彼のフィクションの特徴ともなっている、時間の記述である。特に漂流二日目あたりまではくどいほど時間にこだわり続ける。そうしてリアリティーを確保し、読者に事実であることを〈信じ込ませ〉ておいてから、『百年の孤独』を彷彿とさせる、同僚の幻が現れた話や様々な夢、人喰い人種に対する恐怖、巨大な海亀の出現などを主人公が一人称で語る物語は、のびのびと展開する。読者がそこにオデュッセウスの影を見ようと、鮫との闘いに『老人と海』を重ね合せようと自由だが、それよりピガフェッタの記録を読むようなつもりで主人公の語る話に耳を傾けた方が、自然の驚異を満喫し、臨場感を味わいながら、この幻想的漂流譚を楽しめるだろう。そして新聞の読者は、多分そのように読んだことだろう。

しかし、ガルシア=マルケスは単行本化に当り、タイトルを改め、正式には『飲まず食わずのまま十日間筏で漂流し、国家の英雄として歓呼で迎えられ、美女たちのキスの雨を浴び、コマーシャルに出て金持ちになったが、やがて政府に睨まれ永久に忘れ去られることになった、ある遭難者の物語』とした。この新聞の見出し風の長いタイトルは、本書が、「ドン・キホーテ」をコピーした、ボルヘスのピエール・メナールではないが、ガルシア=マルケスによる自らの新聞記事のパロディであることを示しているようだ。しかもこのタイトルは、原作にはなかった前書きの内容まで含んでいる。重要なのは、前書きの中で、海軍から追放された主人公と事実上の亡命を余儀なくされた作者の後日譚が語られていることだ。つまり、二人は人生の漂流者となったわけで、その前書きとタイトルによって、海洋冒険物語は、新たな孤独の物語として再生することになった。そしてそれは、十五年の歳月を経た後、ガルシア=マルケスが、原作をどう読み直したか、あるいはパロディとして書き直したか、を示していると言える。

ところで、先にボルヘスを引き合いに出したが、その彼とビオイ=カサーレスのコンビによる、『天国・地獄百科』の邦訳も最近出た(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1983年)。初版は一九六〇年とこれもかなり古いものだが、彼ら自身やスウェデンボルイの作品をはじめ、「人類が書き残したあまたの聖なる書物」の断章の引用によって織り成された書で、「古来の天国と地獄にまつわる概念の展開をかいま見せ」ようとするものだ。『幻獣辞典』とは異なり、編者による解説はなく、教典や文学作品の断片が、互いに他を映す歪んだ鏡となり、天国・地獄の静的でも統一的でもない像がそこには示されている。人類の想像力の多様性とスケールの証でもあるこの未完の書を開く者は、彼らの仕事を引き継ぐことを要求される。本書及び先の『ある遭難者の物語』は、いずれも書肆風の薔薇の「アンデスの風叢書」の一冊として刊行されたものである。

天国・地獄百科 / ホルヘ・ルイス・ボルヘス,アドルフォ・ビオイ=カサーレス
天国・地獄百科
  • 著者:ホルヘ・ルイス・ボルヘス,アドルフォ・ビオイ=カサーレス
  • 翻訳:牛島 信明,内田 吉彦,斎藤 博士
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(177ページ)
  • 発売日:1991-12-01
  • ISBN-10:4891762616
  • ISBN-13:978-4891762612
内容紹介:
好戦的な天国もあり、爽やかな地獄もあるとすれば、天国とは地獄とは、そして我々の生きるこの現世とは一体何なのか?人間の宗教的感情と共に古いこの問いに答えるべく、アルゼンチンの二人の国際的作家が編んだ、古今東西の信仰篤き(あるいは神をも畏れぬ)文学者・哲学者・宗教家等々の珠玉のアンソロジー。天国に憧れ、地獄を恐れる全ての読書人に贈る奇書。

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ある遭難者の物語 / ガブリエル・ガルシア・マルケス
ある遭難者の物語
  • 著者:ガブリエル・ガルシア・マルケス
  • 翻訳:堀内 研二
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(139ページ)
  • 発売日:1992-07-01
  • ISBN-10:489176273X
  • ISBN-13:978-4891762735
内容紹介:
1955年2月のある日,荒天下のカリブ海で、コロンビア海軍の駆逐艦から数名の水兵が海に落ちた。全員が絶望視されていたにもかかわらず,10日後、1人の水兵が瀕死の状態で母国に漂着した。太陽に焼かれ、鮫と闘い、友人の霊と語り、筏に自らを縛り付け、人喰い人種の島を恐れ、巨大な海亀に出会いつつ、極限的な飢えと渇きの果てに祖国に生還した彼を待ちうけていたものは…。

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初出メディア

海(終刊)

海(終刊) 1983年3月

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