書評

『イディッシュ―移動文学論〈1〉』(作品社)

  • 2024/03/19
イディッシュ―移動文学論〈1〉 / 西 成彦
イディッシュ―移動文学論〈1〉
  • 著者:西 成彦
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(350ページ)
  • 発売日:1995-08-01
  • ISBN-10:4878932260
  • ISBN-13:978-4878932267
内容紹介:
移動する民・ユダヤ人の慈しみ育んだイディッシュ文学に光を当てる論文集。複数の言語のはざまに生まれ、さまざまな阻害をうけて没落してきたイディッシュの新しい文学史の可能性を探る。国家を越えるボーダーレス宣言の書。

時との戦い

「わたし、急いでるのよ」ロバート・ネイサンの小説『ジェニーの肖像』に登場する少女はそう言いながら、驚異的なスピードで成長していく。彼女が生きているのは極度に圧縮された時間であり、必ずしも因果律に基づいてはいない。カルペンティエルの「種への旅」の中で黒人が杖を振った瞬間に逆向きに流れるあのめくるめく時間も『百年の孤独』の最後に描かれているのもやはり圧縮された時間だ。アウレリアノ・ブエンディーアは、羊皮紙を解読し、封じ込められていた時間を解き放つ。一般に文学史と銘打たれた書物も、圧縮された時間を包摂しているはずである。だが、多くの場合、歴史というスタイルに収まってしまったその時間は、先の小説のように切迫感をもたらすことはない。ところが『イディッシュ』(西成彦著・作品社刊)はちがっていた。移動や混血性をキーワードとするこの本は、多様な補助線を引くことにより文学史でありながら静的文学史の批判となっていて、そこに息づいているのはむしろ小説的ともいえる、あの切迫感をもたらす時間である。ユダヤ人の生きた(ている)時間が緊張を保ったまま圧縮されているのだ。のんびりとページを繰ってはいられない。速度を上げれば、本とそのテーマであるイディッシュの終りも早くなると知りつつ、羊皮紙を十一ページ分すっ飛ばしたアウレリアノのように、先を読まずにはいられないのだ。ガロアが決闘の前日に書いた書簡を解読した人物は、それをどんな気持で読んだのだろう。 

実際、『イディッシュ』は、確率からいえば助かる可能性もあったはずのガロア以上に追いつめられた人々に満ち満ちている。彼らは個人と集団の二重の死に直面しなければならなかった。彼らの多くは時間を圧縮し、生き急がざるをえなかった。その通常とは異なるもうひとつの時間に触れたために、読者であるぼくが感応し、何かに駆り立てられ始めたのかもしれない。

この時間は、巻末に収録された短篇集にも感じられた。たとえば作者が寓意性を否定することでより寓意性を意識させる「つがい」の二羽の七面鳥の運命は、押し止めようもなく迫ってくる。「幸福な七年」では、その七年は「まるで弓を放たれた矢のように」という月並な比喩とともにわずか一行で過ぎてしまう。「だんまりやのボンチェ」の死のあっけなさ。あの世の法廷で彼の生涯はものすごいスピードで要約される。「十字架」で語られるポグロム(ユダヤ人虐殺)襲来の速さも相当なものだ。「しかし、おれたちが動き出すのはもう遅かった。ポグロムはもうその晩にやって」くるのだ。「カフェテリア」の語り手である作家がポーランドからニューヨークに渡ってきてからたちまち三十年が経つ。こちらの思い込みかもしれないが、どの作品についても、時間が気になって仕方がない。

ポグロムからホロコーストに至る不条理な出来事に遭遇した人々、あるいは運良くそれを免れ、逃れることのできた人々の抱く時間感覚とはどのようなものであるのか。もちろん一律ではないだろう。

イツホク・バシヴィスの短篇「カフェテリア」の語り手である「わたし」は、その特徴からして、作者にかなり近いように思われる。その「わたし」はあるとき行きつけのカフェで、ホロコーストを免れ、渡米した若い女に出遭う。この彼女が、すでに死んでいるはずのヒトラーに会ったと彼に打明ける。とまどった彼は、それを心霊現象として解釈しようとする。「あなたは時間を遡って、過去を覗き見たのさ」久々に会った彼女の表情に「時間の経過」を看取る彼は、時間に対して決して鈍感ではない。だが彼は、自分の時間の観念が失せてしまっていることも隠さない。問題は、彼が見かけた彼女が、本当なら老人になっているかあるいは死んでいるはずの背教者の男と一緒だったことだ。それは心霊現象ではない。すると彼は、カント哲学を持出し、「時間と空間を知覚の形式にすぎないととらえるならば、そして質や量や因果律も思考の力テゴリーだと考えるならば、すべてが想像可能である」として、納得するとともに、自らのアナクロニズムを正当化してしまう。このような認識の仕方はやはり正常ではない。女がヒトラーに会ったということの背後にホロコーストの影を見ることは困難ではない。が、「わたし」のねじれた認識方法にも同じ影を見ることができるのではないか。かりに彼が、ヒトラーが存在したという歴史的事実を思考の一部に還元しようとしたのであれば、そこにはやはりホロコーストの圧倒的な影を見ないわけにはいかないからだ。

『イディッシュ』の「新大陸」を扱った部分を読みながら、「世界ホロコースト文学史」 とでも呼ぶべきものを思いついたのだが、実は力ルロス・フエンテスが小説の形で既にそれを試みていることを思い出した。

彼の『脱皮』はユダヤ人を含む男女四人が車でメキシコ市からベラクルスに向って、征服者コルテスの軍勢が辿った道を逆に辿り直そうとする話だ。冒頭でトルテカの聖地がスペイン軍の攻撃を受ける場面が描写されたり、登場人物の一人がナチの強制収容所建設体験を回想したりするこの小説のアイデアは明らかだろう。新旧大陸のホロコーストを重ね合せることで、ユダヤ=ヨーロッパという文脈を切断することをフエンテスは試みている。因みに、彼はウイリアム・スタイロンときわめて親しいが、『脱皮』は『ソフィーの選択』よりも先に書かれている。それにしても、中世のユダヤ人迫害からスターリニズム、ヒロシマ、反革命軍のキューバ侵攻、米国の黒人問題など、時空を越えて複数の事件を結びつける構想のスケールの大きさはいかにもフエンテスらしい。ただし彼は、ユダヤ人を一方的な被害者にするのではなく、自らの裡に他者性を宿した人間の矛盾を指摘し、暴力についてはすべての人間に罪があるとする。

一方、被害者と加害者の関係を別の形で無化しているのが、メキシコの女流エレナ・ガーロの短篇「トラスカラ人の罪」である。良家の若い夫人が、ひどい身なりで帰宅し、女中に自分の休験を話す。それによると、古戦場にさしかかった車が動かなくなり、外に出るとスペイン軍の攻撃を受けて敗走する先住民たちの中に居合せ、しかも彼女は戦士のひとりの許婚者となっている。この出来事を夫は信じない。だが、ある晩、例の戦士が現れる。そしてついに彼女はその戦士とともに、時間の裂け目を通って先住民の世界へ帰って行く。この作品で特徴的なのは、語り手があちらの世界と交通できる人間もしくは共同体の意識のようなものであり、作者がシャーマンを思わせることだ。先住民のホロコーストについての本は数あるが、それが先住民の側に立つものでさえ、外からの視点によって書かれてきただけに、白人であるガーロのこの短篇は印象に残る。

『イディッシュ』は、その中でも触れられているエスノポエティックスという発想から生れたものだろう。それが「異文化の衝突を詩生成のダイナミズムの中でとらえようとした」ものであるならば、本来の読みから逸脱した読みも許容されると思う。こうした読みを誘発することこそがエスノポエティックスの役目であるはずだからである。
イディッシュ―移動文学論〈1〉 / 西 成彦
イディッシュ―移動文学論〈1〉
  • 著者:西 成彦
  • 出版社:作品社
  • 装丁:単行本(350ページ)
  • 発売日:1995-08-01
  • ISBN-10:4878932260
  • ISBN-13:978-4878932267
内容紹介:
移動する民・ユダヤ人の慈しみ育んだイディッシュ文学に光を当てる論文集。複数の言語のはざまに生まれ、さまざまな阻害をうけて没落してきたイディッシュの新しい文学史の可能性を探る。国家を越えるボーダーレス宣言の書。

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