書評
『メシュガー』(吉夏社)
人間の不可解さを直視する文学
この小説は、第2次世界大戦から7年後のニューヨークを舞台に始まる。戦前にヒトラーとナチズムの迫害を逃れて故郷ポーランドからアメリカへ渡った作家アーロン・グレイディンガーと、ユダヤ難民として生きる人々の錯綜した関係が描かれる。「メシュガー」とはユダヤ人固有の言語・イディッシュで「正気を失った」等を意味する単語。何を信頼し、どこに足場を求めればよいのかわからない世界の姿を、著者は見つめる。人間にとって人間の不可解さほど愛すべき対象はない、という視点を突きつける。
ユダヤ人とユダヤ教に独特の習俗や表現が出てくるが、それらがなじみのない印象を与えるというよりはむしろ、人間の普遍に届く視点が全体を包んでいて、感動をもたらす。
グレイディンガーが出会う人物の一人にミリアムがいる。文学を深く理解する20代の女性。生き延びるために娼婦をしていたこともあるミリアムを、グレイディンガーは拒絶しない。「何があっても私が衝撃を受けるなんてことはもうありえない。(中略)あなたは作家かもしれない、作家ね、でも人類にどんなことができるかについては、私の方があなたよりよく知っているわ」
少しずつ明かされるミリアムの過去。強制収容所での最悪の所業。それでも、ヒトラーの犠牲者を裁くことなどできはしない、とグレイディンガーは懊悩しながらも受け止める。それが生きる道だからだ。
「文学はこうあるべきだ、できごとが目白押しで、決まり文句や感傷的な物思いなどは入り込む余地がない」。グレイディンガーの思考は、著者の考え方を反映している。心理の描出は抑えられている。行為、行動、対話の累積がこの小説のすべてを形作る。自分の心に正直に生きようとする人物たち。苦悩と歓喜を描き切り、人間の姿を直視する、アイザック・B・シンガー晩年の到達点だ。
朝日新聞 2017年02月12日
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