書評

『メシュガー』(吉夏社)

  • 2017/07/21
メシュガー / アイザック・バシェヴィス シンガー
メシュガー
  • 著者:アイザック・バシェヴィス シンガー
  • 出版社:吉夏社
  • 装丁:単行本(334ページ)
  • 発売日:2016-12-20
  • ISBN:4907758251
内容紹介:
シンガー最晩年の到達点―ヒトラーの恐怖を生き延びて、それぞれニューヨークに辿り着いたユダヤ難民たち。常に死を意識しながらも新たな生を模索する彼らだが、作家アーロンは、その中の一人の女性ミリアムに強く惹かれていく。やがて彼女の“暗黒”の過去が暴かれていくが…。「お話の名手」であるシンガーが自らの作家人生をリアルに織り込みながら描く最晩年の必読長篇。

イディッシュで伝える英知ある言葉

ポーランドの首都ワルシャワは第二次世界大戦前、ヨーロッパ最大のゲットーをもち、五十万にちかいユダヤ人がいた。そこでは「民衆ユダヤ語」と蔑視されたイディッシュが話され、アイザック・シンガーもポーランド・ユダヤの一人であり、イディッシュで書くことを始めた。ナチス・ドイツの侵攻に先だちアメリカに逃れ、アメリカの作家となってからも、またノーベル賞作家となってのちにも、少数者の言葉を捨てなかった。タイトルの「メシュガー」はイディッシュで「気が狂った」「バカな」といった意味。

物語は第二次大戦が終わって七年後のニューヨーク。アメリカに逃れたユダヤ人の大半はニューヨークに住みつき、さながらワルシャワ・ゲットーが引き移ったかのようだ。となれば小説の冒頭にあるようなことが生じる。

「たびたび起きたことだが、てっきりヒトラーの収容所で亡くなったと思っていた人物が実は生きていて、元気に姿を現わすのだった」

ほんの一行で、すでにシンガーの世界に入っている。「ヒトラーの収容所」とあって、ナチスの苛烈なホロコースト(ユダヤ人虐殺)が物語の底流にある。「元気な姿」は生きのびたのちの仮の姿であって、さんざん死神にいたぶられた者には、もはや仮の姿しかないのである。

シンガーの小説に出てくる男も女も、何という語り手だろう。ワルシャワの暮らし。その後にみまった地獄。おおかたが両親、兄弟姉妹、子ども、親類縁者、ことごとくを失った。出来事を語ろうとすると、記憶が循環し始める。そして終わらせるのを恐れるかのように、もとの出発点にもどってくる。その結果のとめどないおしゃべり。

「記憶って何かしら? ほかのあらゆるものと同じね――謎よ」

シンガーが愛惜こめて語らせる人物が、多少とも変人、奇人を思わせるのは、死と親しみすぎると、少しずつ土台の沈んでいく建物のように、人間性が傾いてくるからだ。誰もがみずからの人生哲学をもち、世の寸法に合わせられない。だからこそかもしれないが、その口からは英知ある言葉がこぼれ出る。シンガーの小説のとりわけたのしいところだ。知恵とお道化(どけ)が微妙な比率でまじり合った英知である。ホラと真理がトランプの表と裏になった言葉。

「私にとっては世界全体が精神病院だ」

「そんなことを言うなんて、キスせずにはいられないわ!」

ここではミリアムの名で出てくる。身一つで、まさしくその「身」を楯にして死の暴虐をしのいできた。作者自身とおぼしい語り手は女の前で思案し、たじろぎ、自省しながら、やはりミリアムに向けて決断する。ミリアムがいるかぎり、人生にまだ何らかの意味があるからだ。

『メシュガー』は実質的にシンガーの最後の長篇にあたる。色こくポーランド・ユダヤの文化をやどした世のはずれ者たちを、ほとんど死滅した言葉で書きのこしておく。作者にはそんな目論見(もくろみ)があったのではあるまいか。正統派ユダヤ教の教義、そこから分化した運命感やこの世の見方が、ユダヤ的比喩に託して語られていく。そこにバラまかれたイディッシュの切れはしが、伝えようのないものを伝えようとする。その意図をくみとって、丁寧に訳されている。

終わりがひとしお印象深い。「もし子供ができたら」とミリアムが言ったとき、語り手は答えた。子供など生まれない。きみとぼく、われわれは「一つの世代の最後の者たち」なんだから。
メシュガー / アイザック・バシェヴィス シンガー
メシュガー
  • 著者:アイザック・バシェヴィス シンガー
  • 出版社:吉夏社
  • 装丁:単行本(334ページ)
  • 発売日:2016-12-20
  • ISBN:4907758251
内容紹介:
シンガー最晩年の到達点―ヒトラーの恐怖を生き延びて、それぞれニューヨークに辿り着いたユダヤ難民たち。常に死を意識しながらも新たな生を模索する彼らだが、作家アーロンは、その中の一人の女性ミリアムに強く惹かれていく。やがて彼女の“暗黒”の過去が暴かれていくが…。「お話の名手」であるシンガーが自らの作家人生をリアルに織り込みながら描く最晩年の必読長篇。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年1月22日

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