書評

『名誉の戦場』(新潮社)

  • 2017/07/09
名誉の戦場 / ジャン・ルオー
名誉の戦場
  • 著者:ジャン・ルオー
  • 翻訳:北代 美和子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(192ページ)
  • 発売日:1994-09-00
  • ISBN-10:4105294016
  • ISBN-13:978-4105294014
内容紹介:
フランス文学界を驚喜させた新星の話題作ついに刊行。小さな靴箱に遺された無名の人々の愛しき生の断片を永遠の忘却から甦らせた純文学の傑作。’90年度ゴンクール賞受賞作品。

雨の匂い立つ小説

パリのキオスクで新聞・雑誌の売り子をしていた中年男がはじめて小説を書き、最も注目度の高い文学賞を獲得して一躍文壇の寵児となる。そんな十九世紀的成功譚が現実のものとなったのは、一九九〇年秋のことだった。ジャン・ルオー『名誉の戦場』。第一次世界大戦の記憶を引きずった語り手の親族を静かに回顧していくこの小説は、あまたのフランス人が味わった悲劇の一端にすぎない地方の家族の不幸から、どの国の、どんな時代の、どんな人間にも通用する普遍を引き出してみせた、美しい散文の達成である。

魅力のひとつは、舞台となる下ロワール地方を湿らす雨だ。雨の匂い立つ小説と言ったらいいのか、この物語では本当によく雨が降る。それもロマネスクな小道具としての退屈な雨ではなく、いくつもの微細な階調に染まった雨が描きわけられ、読み手の鼻孔と皮膚に訴えかける。霧雨、雷雨、驟雨にこぬか雨。ときには土砂降りとなり、ときには北西風をともなって冷たく吹きつける雨は、この地に暮らす人々にとって、「人生のパートナー」なのである。複雑な雨の諸相の描写には、作者みずからその影響を認めるクロード・シモンに倣った息のながい文章が効率よく使われ、シモンの小説に漂う風や干し草の匂いとも通じた、陰湿でない独特の質感を保つ雨の肌触りが再現されている。

雨についてひとしきり論じたあとで、まさにその雨の降り方に我慢のならない「おばあさん」の話を持ち出すのは、だから、きめこまかな観察眼と大陸ではめずらしい英国風ユーモアに恵まれたルオーの計算なのだ。彼女は飄々とした生きざまを貫く一歳年下の夫、すなわち「おじいさん」が、雨にこのうえなく不向きな幌屋根式シトロエン2C――「2CVは霊長類の頭蓋に似ていた」というさりげない一句がいい――を駆って走ることにも我慢がならない。生活の規格である雨を拒むことで、親同士の話し合いが生んだ自身の結婚とその後の人生をも暗に否定しているのではないか、と解釈する話者の眼はやさしくかつ残酷なものだが、このふたりを柱とする登場人物たちはみな、雨がその強弱を変化させるときに似た、予測不可能な、しかし滑らかにはちがいない語りのなかで、クロノロジーを無視して入れ替わり立ち替わり顔を出し、いつのまにか読者と旧知の間柄になっている。

なかでも忘れがたい印象を残すのが、使徒のごとく教育に打ち込む老教師の「ちいおばちゃん」ことマリーの存在だ。二十六歳で生理が止まってしまった原罪なきオールドミス。なぜ無月経に見舞われたのか、その痛ましい理由は、物語の後半、曇り空から不意にのぞいた陽光さながらちらりと説明されている。悪魔的な強風が吹き荒れ、フロベールばりの喜劇にしたてあげられてしまう彼女の葬儀の場面はもとより、ルオーの最良の部分が、この不遇な叔母の扱い方と、彼女に向けられた、同情とはまた異質の、いたわりに満ちた視線に顕われている。

祖母や叔母にくらべると、両親の影が奇妙に薄い。それが意図的な操作だったことは、一九九三年に刊行された続篇『偉人たち』を一読すれば明らかになるだろう。内気な父親を主人公に押し立て、変わらぬ繊細な語り口でふたたびルオーの世界を楽しませてくれるこの第二作も、いずれ日本語に移されることを期待したい。

【新版】
アデン、アラビア/名誉の戦場  / ジャン・ルオー,ポール・ニザン
アデン、アラビア/名誉の戦場
  • 著者:ジャン・ルオー,ポール・ニザン
  • 翻訳:北代 美和子,小野 正嗣
  • 出版社:河出書房新社
  • 装丁:単行本(329ページ)
  • 発売日:2008-11-11
  • ISBN-10:4309709508
  • ISBN-13:978-4309709505
内容紹介:
老いて堕落したヨーロッパにノンを突きつけ、灼熱の地アデンへ旅立った二十歳。憤怒と叛逆に彩られた若者の永遠のバイブルを、三島由紀夫賞作家による新訳で紹介(『アデン、アラビア』)。若き… もっと読む
老いて堕落したヨーロッパにノンを突きつけ、灼熱の地アデンへ旅立った二十歳。憤怒と叛逆に彩られた若者の永遠のバイブルを、三島由紀夫賞作家による新訳で紹介(『アデン、アラビア』)。若き日の深い悲しみを胸に、悲劇を乗り越えて豊かに生きたマリーおばちゃんを中心に、第一次大戦に倒れた無名の犠牲者たちの思い出を掘り起こし、繊細な文体で甦らせたゴンクール賞受賞作(『名誉の戦場』)。

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【この書評が収録されている書籍】
本の音 / 堀江 敏幸
本の音
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(269ページ)
  • 発売日:2011-10-22
  • ISBN-10:4122055539
  • ISBN-13:978-4122055537
内容紹介:
愛と孤独について、言葉について、存在の意味について-本の音に耳を澄まし、本の中から世界を望む。小説、エッセイ、評論など、積みあげられた書物の山から見いだされた84冊。本への静かな愛にみちた書評集。

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名誉の戦場 / ジャン・ルオー
名誉の戦場
  • 著者:ジャン・ルオー
  • 翻訳:北代 美和子
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(192ページ)
  • 発売日:1994-09-00
  • ISBN-10:4105294016
  • ISBN-13:978-4105294014
内容紹介:
フランス文学界を驚喜させた新星の話題作ついに刊行。小さな靴箱に遺された無名の人々の愛しき生の断片を永遠の忘却から甦らせた純文学の傑作。’90年度ゴンクール賞受賞作品。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1995年2月

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