書評
『黒いヴェール―写真の父母をわたしは知らない』(文藝春秋)
写真というのは悲しいものである。写真には一瞬の時がそのままフリージングされている。その瞬間に漂っていた匂い、注いでいた陽の光、影、流れていた音、言葉といったものが閉じこめられている。それを見ると、そのときの空気や気配が伝わってくる。写っている風景や人物に対して抱いていた感情すら、生々しく蘇ってくる。
そういった感触をそのまま受け入れるのが難しい場合もある。すっかり忘れていた感情にがんじがらめにされるような写真だ。すでにこの世にはない者たちが写っている写真も、そういった類のものかもしれない。
『黒いヴェール』は、フランスの女優アニー・デュプレーが、父リュシアン・ルグラの残した写真から、早くに亡くなった両親の生き方に想いを馳せる鎮魂歌のような本である。
デュプレーが八歳のときに、両親は亡くなった。突然の死を彼女は心を閉ざすことで受け入れる。ふたりの死を告げられたとき、「私はすでに反応を開始し、苦しみに対する抗体をつくりはじめていた。泣き濡れた一家に立ち向かったのは、全身に無関心の鎧をまとった乾いた眼の少女だった」
それから三十年後に、ひょんなことから写真家だった父の写真が出てくる。突然の過去との遭遇にデュプレーは戦慄する。そこには、見も知らぬ母や父の姿、著者の幼い頃の姿が写し出されている。透き通ったような風景と、家族の団らんの場面が写っている。それを見ながら語るデュプレーの言葉がいい。これは回顧録というよりも過去を旅する詩だと言えよう。
静かな池を前にして、こちらに背を向けて椅子に座っている母娘の写真がある。少女は五歳くらい。母親は娘の手を握っているようにも見える。ふたりの表情はまったくわからない。ただ、ふたりが母娘であることだけは、その様子から受け取れる。そこにこのような文章が添えられている。
悲しみに満ちた大切な過去の匂いが立ちこめている。かつて大事な一瞬があった。それを本人は忘れている。母と幼い娘との時間がこのように優しく交錯していたことは、この写真がなければ一生わからなかったはずだ。
わたしたちにも、わたしたちの知らない時間がある。両親の若い頃、祖父母の若い頃の時間。わたしたちが幼かった頃の時間。刻々と移ろう時間のなかの一こま。そしてそういった写真は埋もれた記憶を掘り起こす作業の手助けをしてくれる。 「私の記憶のこの閉じた扉をこじあけるには、どうすればいいのか?
もちろん、人は私に言うだろう。十年分の記憶喪失、失われた子ども時代の暗い穴をかかえたままでも、ちゃんと生きられる、と。
もちろん、そのとおり──それは私がしていること。
けれども、首を切られた人だって、自分の頭と一緒に埋葬してもらえる。私、この私も五体満足な姿で終わりたい……」
彼女の悲痛な心の叫びに、読む者の心は震える。白黒の写真を見、彼女の語る言葉の美しさを読むと、一人の女性の命のありかが立ち現われてくる。人は愛する者を永久に忘れ去ることはできない。
家族の写真がある。両親の結婚披露のスナップ写真。そこに写っている若い母の顔を見て、デュプレーは惹きつけられ、感動する。これまで嫌ってきた自分の瞼と目と同じものをそこに発見したからだ。母も同じ瞼と目をしていたことを知って、「私はありのままの自分の眼とともに生き、それを見せることを受け入れるようになった。あなたの眼、お母さん、そしてあなたが私に遺した視線」。三十年前に亡くなった母は、いまもなお娘に語りかける。語りかけ得る力をもっている。
こうして写真集を見ているうちに、わたしは十三年前に撮ったスナップ写真を思い出した。引き出しから取り出してみる。個人的な写真だ。わたし以外の者には何の価値もない写真。軽井沢の小さな山荘のテラスで友人八人が思い思いの格好をしている。皆二十代半ばでとても若々しい。わたしはいまよりずっとほっそりしている。まぶしそうに目を細める者、怒ったような表情の者、笑おうとして躊躇っているような顔つきをしている者。
もう二度とこうしてこの八人が一緒に写真を撮ることはない、ということをわたしは知っている。だからこそ、この写真がいとおしいのだ。八人のうちの一人は亡くなった。一組のカップルは離婚し、一人は病気を患っている。そして一人とはここ数年会ったこともなければ電話で話すこともない。
時とともに変わっていったのは時間ばかりではない。それぞれの生き方と考え方、友人であった事実もまた遠い昔のことになりつつある。しかし、この写真だけは、わたしたちがかつてこうした夏の時間を共有し、一緒に笑い、酒を飲み、徹夜で語ったことを教えてくれる。将来への不安を誰もが持っていた。
これは、悲しい記憶でも、つらい思い出でも、楽しい過去でもない。ましてや感傷などではない。ただ、こうした事実があった、ということを知るだけだ。しかし、これを見ているわたしは、そのときに友人が言った言葉を、そのときに吹いていた風のそよぎを感じる。
【この書評が収録されている書籍】
そういった感触をそのまま受け入れるのが難しい場合もある。すっかり忘れていた感情にがんじがらめにされるような写真だ。すでにこの世にはない者たちが写っている写真も、そういった類のものかもしれない。
『黒いヴェール』は、フランスの女優アニー・デュプレーが、父リュシアン・ルグラの残した写真から、早くに亡くなった両親の生き方に想いを馳せる鎮魂歌のような本である。
デュプレーが八歳のときに、両親は亡くなった。突然の死を彼女は心を閉ざすことで受け入れる。ふたりの死を告げられたとき、「私はすでに反応を開始し、苦しみに対する抗体をつくりはじめていた。泣き濡れた一家に立ち向かったのは、全身に無関心の鎧をまとった乾いた眼の少女だった」
それから三十年後に、ひょんなことから写真家だった父の写真が出てくる。突然の過去との遭遇にデュプレーは戦慄する。そこには、見も知らぬ母や父の姿、著者の幼い頃の姿が写し出されている。透き通ったような風景と、家族の団らんの場面が写っている。それを見ながら語るデュプレーの言葉がいい。これは回顧録というよりも過去を旅する詩だと言えよう。
静かな池を前にして、こちらに背を向けて椅子に座っている母娘の写真がある。少女は五歳くらい。母親は娘の手を握っているようにも見える。ふたりの表情はまったくわからない。ただ、ふたりが母娘であることだけは、その様子から受け取れる。そこにこのような文章が添えられている。
この女性が私を愛撫したなんて、そんなことがありえるだろうか。私はその証拠をこの写真のなかに見る。この人は私の手を握っている。ある日、私の手がこの人の手に触れ、私はその暖かさを感じたなんて、そんなことがありえるだろうか? その髪が私の頬をくすぐり、私は笑いながら、この女性を『ママ』と呼んだことが?
悲しみに満ちた大切な過去の匂いが立ちこめている。かつて大事な一瞬があった。それを本人は忘れている。母と幼い娘との時間がこのように優しく交錯していたことは、この写真がなければ一生わからなかったはずだ。
わたしたちにも、わたしたちの知らない時間がある。両親の若い頃、祖父母の若い頃の時間。わたしたちが幼かった頃の時間。刻々と移ろう時間のなかの一こま。そしてそういった写真は埋もれた記憶を掘り起こす作業の手助けをしてくれる。 「私の記憶のこの閉じた扉をこじあけるには、どうすればいいのか?
もちろん、人は私に言うだろう。十年分の記憶喪失、失われた子ども時代の暗い穴をかかえたままでも、ちゃんと生きられる、と。
もちろん、そのとおり──それは私がしていること。
けれども、首を切られた人だって、自分の頭と一緒に埋葬してもらえる。私、この私も五体満足な姿で終わりたい……」
彼女の悲痛な心の叫びに、読む者の心は震える。白黒の写真を見、彼女の語る言葉の美しさを読むと、一人の女性の命のありかが立ち現われてくる。人は愛する者を永久に忘れ去ることはできない。
家族の写真がある。両親の結婚披露のスナップ写真。そこに写っている若い母の顔を見て、デュプレーは惹きつけられ、感動する。これまで嫌ってきた自分の瞼と目と同じものをそこに発見したからだ。母も同じ瞼と目をしていたことを知って、「私はありのままの自分の眼とともに生き、それを見せることを受け入れるようになった。あなたの眼、お母さん、そしてあなたが私に遺した視線」。三十年前に亡くなった母は、いまもなお娘に語りかける。語りかけ得る力をもっている。
こうして写真集を見ているうちに、わたしは十三年前に撮ったスナップ写真を思い出した。引き出しから取り出してみる。個人的な写真だ。わたし以外の者には何の価値もない写真。軽井沢の小さな山荘のテラスで友人八人が思い思いの格好をしている。皆二十代半ばでとても若々しい。わたしはいまよりずっとほっそりしている。まぶしそうに目を細める者、怒ったような表情の者、笑おうとして躊躇っているような顔つきをしている者。
もう二度とこうしてこの八人が一緒に写真を撮ることはない、ということをわたしは知っている。だからこそ、この写真がいとおしいのだ。八人のうちの一人は亡くなった。一組のカップルは離婚し、一人は病気を患っている。そして一人とはここ数年会ったこともなければ電話で話すこともない。
時とともに変わっていったのは時間ばかりではない。それぞれの生き方と考え方、友人であった事実もまた遠い昔のことになりつつある。しかし、この写真だけは、わたしたちがかつてこうした夏の時間を共有し、一緒に笑い、酒を飲み、徹夜で語ったことを教えてくれる。将来への不安を誰もが持っていた。
これは、悲しい記憶でも、つらい思い出でも、楽しい過去でもない。ましてや感傷などではない。ただ、こうした事実があった、ということを知るだけだ。しかし、これを見ているわたしは、そのときに友人が言った言葉を、そのときに吹いていた風のそよぎを感じる。
【この書評が収録されている書籍】
BURRN! 1996年7月号
世界最大の実売部数を誇るヘヴィ・メタル/ハード・ロック専門誌。海外での独占取材を中心に、広いネットワークで収集した情報量の多さと、深く掘り下げた読み応えのある記事の質の高さは、幅広いファン層から熱烈に支持されているのみならず、世界中のミュージシャンからも深い信頼を受けています。
ALL REVIEWSをフォローする






































