書評

『用心棒日月抄』(新潮社)

  • 2018/09/29
用心棒日月抄 / 藤沢 周平
用心棒日月抄
  • 著者:藤沢 周平
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(519ページ)
  • 発売日:1981-03-27
  • ISBN:9784101247014
内容紹介:
家の事情にわが身の事情、用心棒の赴くところ、ドラマがある。青江又八郎は二十六歳、故あって人を斬り脱藩、国許からの刺客に追われながらの用心棒稼業。だが、巷間を騒がす赤穂浪人の隠れた動きが活発になるにつれて、請負う仕事はなぜか、浅野・吉良両家の争いの周辺に……。江戸の庶民の哀歓を映しながら、同時代人から見た「忠臣蔵」の実相を鮮やかに捉えた、連作時代小説。
この欄で時代小説を取り上げたことはなかった。わたし自身、時代小説を読むようになったのは三十を過ぎてからで、それまではどういうわけか、時代小説はお爺さんが縁側でひなたぼっこをしながら読むものだという根強い偏見を抱いていたのである(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1997年)。なんのことはない、わたしの祖父がそのようにして時代小説を読んでいたからであるのだが。ところが、ちょっとしたことで入院したときに、ふと思いついて池波正太郎の『鬼平犯科帳』『剣客商売』を持っていった。そのとき、時代小説には格別な味わいがある、と悟り、それ以来折に触れては読んできた。

読んでいるときに言いしれぬ平穏な時間が流れる。まったく邪心が入らない。その原因は何かと考えてみるに、片仮名表記がないからわたしにとっては心地よいのではないか、と思った。細々とながら翻訳を生業にしているために、横文字を普通の人よりはたくさん読み、翻訳書も読む。翻訳書というのは、悲しいかな、片仮名表記が多い。第一、ごく一部の例外はあるものの、登場人物が片仮名である。最近では題名からして片仮名が多い。これを排しようとすると無理が生じてしまう。もっとも、倫敦とか仏蘭西とか紐育といった表記をするのは嫌いじゃない。嫌いじゃないが、それをよしとして貫き通すほどわたしは強くない。

問題なのは、わたしがわけもなく片仮名が嫌いだという点にある。片仮名はご飯のなかに潜んでいる砂か石のようなもので、その歯触りのひどさに暗澹となる。したがって、わたしは片仮名を使わざるを得ないときには、できるだけまぜご飯のなかに入っている椎茸か胡麻のような錯覚をしてもらうように努めているのだが、なかなかそうはいかない。

しかし、時代小説にはまったくと言っていいほど片仮名がない。当然と言えば当然であるが、その文章の流れが美しいのである。見た目も綺麗だ。

いや、なに、頭が固くなっているのかもしれないが、読者のみなさんも一度は片仮名のない文章というものを読んでごらんになるのも一興だと思う。

さて、今月取り上げるのは藤沢周平の『用心棒日月抄』である。この作品には、良質な娯楽と謎解きの要素が入っていて、しかも江戸庶民の生活や習慣なども細かく描かれていて、まるで上質な映画を観ているような気になってくる。さらに、主人公である青江又八郎が魅力的である。しかも、この作品は連作になっているので、『用心棒日月抄』が気に入ったら、続編の『孤剣』『刺客』『凶刃』と進んでいける。第一作では赤穂浪士が吉良を討つまでの様子と、青江が藩を追われたきっかけとなった事件の真相が解明されるまでが重なるように描かれる。用心棒という裏の仕事をしているうちに次第に赤穂の浪人たちと関わるようになり、青江の目から見た『忠臣蔵』が明らかにされる。さらに第二作、第三作では、第一作で知り合った人々と交流が深まっていく様子が丁寧に描かれている。そのなかでも、佐知という女性と青江との関わりは、四作読み終えると胸にこたえる。佐知の抑制された描き方がいいのである。わたしは時代小説に登場する女性たちの通り一遍的な描かれ方に首を傾げることが時折あるが、佐知はいい。

たとえば、池波の『剣客商売』では三冬は少年のような剣士として登場し、やがては大治郎の嫁となって子どもを産み、ひとりの女性として花開いていく様子が描かれる。この三冬は、とりわけ結婚するまでは、剣の道を究めようとする厳しさと、自分の恋心に対する戸惑いと、出生にまつわる寂しさを抱いていて、とても魅力的である。そして大治郎に嫁してからは、嫁として妻として胸がすくような活躍をする。これはこれでなかなかいいのだが、しかし、佐知のほうが精神的に大人である。藩の忍びの頭領である佐知は、命を賭けて救い出した青江に惹かれ、青江もまた佐知に惹かれる。しかし、二人は暗黙のうちにその思いを封じ込めていく。この思いがいつ、どこで、溢れ出ていくのか。それもこの作品を読むうえでの醍醐味である。青江の受けた使命は佐知の存在なくしては成り立ち得ない。言葉多く語られることのない佐知と青江の心の傾きが、行間から滲み出ていく。これは藤沢のすごさだと思う。

と同時に、こうした心の傾きはもう、時代小説でしか描かれないのかもしれないという寂しさも感じる。決まった価値観、公のために私を投げ捨てる美学、男は女を守り、女は男を支えるというかつての美徳。いまではすでに失われているある秩序のなかでしか描ききれない世界が確かにあって、それを描くために時代小説という枠が必要だとも言えるのかもしれない。そしてどういうわけか、疲れた心はそういったものを求める傾向にあるらしい。

わたしの友人が去年、親しい身内を亡くした。彼女は病院に通い、看病し、充分に看取り、葬儀の後、なにも考えられなくなったと言った。読書好きな彼女でも、数ヵ月は本を読む気力さえなかったそうだ。ところが、ふと本を読んでみようかと手に取ったものは『剣客商売』だったと、電話で教えてくれた。「この世界の優しさと落ち着きがわたしには必要だったんだと思う」と彼女は言った。わたしはそのとおりなのだろうと納得した。

ちなみにわたしの祖父は岡本綺堂の『半七捕物帳』が好きだった。生きていたら、きっと藤沢周平に夢中になっていたことだろう。

藤沢周平は今年(一九九七年)一月に亡くなった。あらためてその偉業を讃えたい。時代小説の面白さと優しさとを描き続けた作家だった。

【この書評が収録されている書籍】
雑な読書 / 古屋 美登里
雑な読書
  • 著者:古屋 美登里
  • 出版社:シンコーミュージック
  • 装丁:単行本(304ページ)
  • 発売日:2017-01-20
  • ISBN:4401643968
内容紹介:
英米文学をはじめ多くの作品を手掛けている翻訳家・古屋美登里氏が“雑読”を旨とする幅広い選書と軽妙洒脱な文章で導く豊かな世界…BURRN!1994年1月号から連載中の書評エッセイ、初期の傑作50選!著者と書評家・豊崎由美氏が「本を読む愉しみ」を大いに語る対談も収録!!

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用心棒日月抄 / 藤沢 周平
用心棒日月抄
  • 著者:藤沢 周平
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(519ページ)
  • 発売日:1981-03-27
  • ISBN:9784101247014
内容紹介:
家の事情にわが身の事情、用心棒の赴くところ、ドラマがある。青江又八郎は二十六歳、故あって人を斬り脱藩、国許からの刺客に追われながらの用心棒稼業。だが、巷間を騒がす赤穂浪人の隠れた動きが活発になるにつれて、請負う仕事はなぜか、浅野・吉良両家の争いの周辺に……。江戸の庶民の哀歓を映しながら、同時代人から見た「忠臣蔵」の実相を鮮やかに捉えた、連作時代小説。

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初出メディア

BURRN!

BURRN! 1997年5月号

世界最大の実売部数を誇るヘヴィ・メタル/ハード・ロック専門誌。海外での独占取材を中心に、広いネットワークで収集した情報量の多さと、深く掘り下げた読み応えのある記事の質の高さは、幅広いファン層から熱烈に支持されているのみならず、世界中のミュージシャンからも深い信頼を受けています。

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