書評

『胃袋の近代―食と人びとの日常史―』(名古屋大学出版会)

  • 2018/08/12
胃袋の近代―食と人びとの日常史― / 湯澤 規子
胃袋の近代―食と人びとの日常史―
  • 著者:湯澤 規子
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(354ページ)
  • 発売日:2018-06-26
  • ISBN-10:481580916X
  • ISBN-13:978-4815809164
内容紹介:
一膳飯屋、残飯屋、共同炊事など、都市の雑踏や工場の喧騒のなかで始まった外食の営みを活写。社会と個人とをつなぐ“食”の視点から日本近代史を書き換える。

職のたんなるネガではない胃袋の問題

近代化は、こと経済にかんしては労働者の移動に集約される。農村で田畑を長子が相続する家制度が確固としていた明治から大正にかけ、長男以外すなわち次男以下や女子は多くが「職」を求めて都市を目指した。神戸や横浜のような港町なら危険な沖仲仕(おきなかし)が大量に必要となり、工場が増えてくると職工が憧れの的となった。女性も「女工」として製糸場で雇用された。対照的に近世まで人は農地に張り付いていた。移動したのはもっぱら商品で、米などは廻船(かいせん)に乗せられ大阪・堂島の市場に向けて周航した。

この違いは都市が「職」を提供するか否かによるが、本書はここで見逃されていた問いに光を当てる。移動した人びとは何を食べたのか、だ。これは興味深い論点で、「食」は日に二、三度の必要事である。故郷の農村であれば米や野菜は自給でき、魚を手に入れたければ行商が物々交換の仲介をした(愛媛では「かへこと」と呼ばれた)。都会が提供する職からは現金が得られるが、賃金の多寡や職の有無さえも景気に左右される。都会で手持ちの銭に事欠けば、食にはありつけなくなってしまう。

これまで経済学や社会学・歴史学は「職」から近代化を論じた。しかし背後にある「食」に無理が生じると、進歩は止まる。著者は小説やルポルタージュ、膨大な調査資料とみずからの調査を元に、賃労働者にとっての「食」がいかに賄われたかを浮き彫りにしている。とりわけ引用が鮮やかだ。

柳田国男の『明治大正史世相篇』によれば、近世にも街道沿いには煮売茶屋という飲食商売があり、「一膳飯」は死者の枕元に供えられるものとして不吉とされた。ところが明治期以降、煮売茶屋は「一膳飯屋」に姿を変え、「どんぶりという器が飯椀(めしわん)に代わって、天どん・牛どん・親子どんなどの、奇抜な名称が全国的になったのも、すべてこの時代の新現象」であった。

林芙美子の『放浪記』には、大正期の一膳飯屋の寒々しい情景が描かれている。「ドロドロに汚れた労働者が駈(か)け込むように這入(はい)って来て、『姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ。』 大声で云(い)って正直に立っている」。林の筆は「私」にも向かう。「人の舌に触れた、はげちょろけの箸を二本抜いて、それで丼飯を食べる。まるで犬のような姿だ」

データも厳密である。大正七年の大阪市の調査によれば、市下の一膳飯屋は一〇坪でも比較的大規模で四五八戸、使用人・営業者は一九○○人に上り、一日の来客数は延べで五万一六〇〇人(一戸平均で一一三人)、当時の大阪市の全人口の三分三厘に及ぶ。典型的なメニューは温かい朝鮮産の米に皿小鉢の野菜や肉・魚というおかず、それに酒類である。水都・大阪らしく、淀川の水上にも一膳飯屋に当たる「くらわんか船」が多く見られたという。

著者の考察は民営の外食に止(とど)まらない。大正七年の米価高騰がもたらした暴動(米騒動)以降、公営食堂や公設市場が設置され、営利目的だとときに値段が変動する「食」や生活必需品を低廉に提供した。一膳飯屋ならば誰もが通りすがりの他人としてチップを要求されたり酒に勧誘されたりするところを、それらを排するのみならず宿泊所・職業紹介所・人事相談所をも併設した。人間関係を取り結ぶ場としても機能したというのである。

そうした公営食堂は東京では大正末にピークを迎えそれ以降は衰退するが、著者はそこに芽生えた「私」でも「公」でもない「共」の意識に注目する。それが現実になったのが「共同炊事」で、昭和十年にかけて広まっていく。職工は食事の質量に関心が深く、差があれば工場間を移動してしまう。それを防ぐために食の平準化とレベルアップを図る共同炊事に複数の工場が加盟したのだが、著者はそこに低賃金労働の安定確保を超えた、地域における社会事業を見出(みいだ)す。

暉峻義等や大原孫三郎らは労働を効率においてのみ管理しようとするテーラー・システムの考え方に反発し、人間尊重を軸とする労務管理を打ち立てようと試みて、実践として食を栄養や衛生の観点から見直したというのである。現在も松山市で受け継がれる「労研饅頭(まんとう)」は、疲労回復に必要な栄養を暉峻が研究し、京阪神から拡(ひろ)がったものである。

こうした食の科学化・合理化に暗い影が射(さ)したのも事実である。技術革新は漬け物にめざましく、大量生産化と味の均一化を実現した。練馬大根や宮重大根は樽に収まる長さ・太さに品質改良され、沢庵(たくあん)(大阪では香々という)が大量に生産されて、戦時下には軍隊食の柱となった。

生活に属する「食」は生産における「職」にともなうがたんなるネガではなく、独自の意義を持つのである。かつて漬け物を食した女工の糞尿(ふんにょう)は肥料として循環利用されたが、化学肥料の登場とともに社会の不要物となった。それが昨今では有機肥料として見直されている。本書は経済を循環からとらえることによって、文化や自然、社会との接点を再考する手がかりを与えている。
胃袋の近代―食と人びとの日常史― / 湯澤 規子
胃袋の近代―食と人びとの日常史―
  • 著者:湯澤 規子
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(354ページ)
  • 発売日:2018-06-26
  • ISBN-10:481580916X
  • ISBN-13:978-4815809164
内容紹介:
一膳飯屋、残飯屋、共同炊事など、都市の雑踏や工場の喧騒のなかで始まった外食の営みを活写。社会と個人とをつなぐ“食”の視点から日本近代史を書き換える。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2018年8月5日

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