日常風景にまぎれた危うい言動きりだす
スペイン語圏文学に活気を感じる。とくに女性作家の躍進ぶりがめざましい(今さら「女性」ということを強調するなという意見もあるが、まるで男女格差がなくなったかの印象を与えるのは困る。世界中の出版や翻訳においてジェンダーの不均衡は未だ確固として残っているのだから、その要因を見極め解決の道を探ることには意義があるだろう)。たとえば、今年、全米図書賞翻訳文学部門を受けたアルゼンチンのサマンタ・シュウェブリンや、各種国際文学賞常連の観も出てきたメキシコのフェルナンダ・メルチョールなど。メルチョールのブッカー国際賞最終候補作「ハリケーンの季節」は、ある村で起きた不審死を題材に性暴力や堕胎、そして現代の“魔女性”を描く傑作だ。
ほかにもアルゼンチンのクラウディア・ピニェイロやマリアーナ・エンリケス、スペインのエルビナ・ナバロなど多彩な人材がそろっており、全体に広義の犯罪小説やホラー風の作品が目につく。
スペイン語の児童書を直輸入するオンライン洋書店を展開している翻訳家・宇野和美が紹介するメキシコのグアダルーペ・ネッテルも見逃せない作家の一人だ。昨年邦訳が話題を呼んだ『赤い魚の夫婦』につづき刊行された『花びらとその他の不穏な物語』には、日常風景の隅にまぎれた危うい言動やいびつな瞬間を截(き)りだす六篇が収録されている。
第一篇の「眼瞼(がんけん)下垂」は、瞼の整形手術の術前術後の画像ばかりを撮影するのが仕事のカメラマンが登場する。彼は瞼に魅入られ、ある若い女性の術前の「イマージュ」とともに生きることになる。
つぎの「ブラインド越しに」という篇には、夜、むかいの集合住宅の部屋を窓越しに眺めるのを悦びとする女性が語り手だ。ある晩、窓のむこうにはふくよかな胸元に黒のワンピース姿で男を誘っているらしき女の姿が見える。ところが、男の姿はキッチンへ移動し、そこで啞然とする行為が始まる。窃視(せっし)という小説の本質を盗み見させる佳作だ。
「桟橋の向こう側」は、「抑圧的で月並みな孤独」に倦(う)み、<ほんものの孤独>を探求する十五歳の少女のひと夏を描く。諍(いさか)いのたえない両親のもとを離れてサンタエレナ島を訪れた彼女は、フランスから来た同じ年ごろの少女と出会って最初は反感をもち、しかし惹かれあい、痛切なふれあいのひとときののちに別れることになる。
どの篇にも、のぞき、フェティシズム、妄想、抜毛……など大なり小なり変わった「奇癖」がとりあげられる。ひたむきになにかを追う束の間のはかない時間があり、それを過ぎゆくままに見送る人たちがいる。怖いような執着、執念と底知れぬ諦念が同居しているのだ。
「盆栽」もそうだ。ストーリーとしては、ある夫婦が離婚した話ということになるだろうが、かなり奇妙な話と言える。
舞台は東京。「ぼく」ことオカダは日曜の午後になると、妻のミドリから頼まれる雑用から逃れるため、本を片手に家を出て、近所をぶらぶらしてから青山植物園を散策する。ある週、急に妻が同行すると言いだし、彼女の話から植物園の園丁の存在を知った。じきに「ぼく」はこの老齢の園丁と言葉を交わし、ふしぎな教えを受けることになる。
なんとなく村上春樹を彷彿とさせるが、ロッシーニの「泥棒かささぎ」が流れたり、園丁の姓がムラカミだと判明したりするので、意識しているのは間違いない。若い男がスフィンクスのごとき老獪(ろうかい)なものに出会って謎を解かされるというのは、村上作品の定番的な展開だ。
とはいえ、「ぼく」は突拍子もない悟りを得てしまう。植物園でサボテンと向かいあううちに、自分はサボテンだと思うようになるのだ。ミドリは彼の「サボテンとしての自認」に猛反発し、執拗にセックスを求めて絡んでくる。旺盛な性行為は「サボテン性」に反するので、「ぼく」は困ってしまうが、そのうち彼は妻を「つる植物」だと思い込むようになり……。一方的な自認とレッテル貼りの理不尽さ、そこから拗(こじ)れる思い込みはどこか滑稽でもあり、恐ろしくもある。
さて、「花びら」は本書のなかでも偏執的な一篇だろう。食事時の混雑のピークを狙ってレストランの女性用トイレに忍びこむ男がいる。女性が残したさまざまな「痕跡」を探して楽しみ、空間に満ちる匂い、音、垣間見える光景に昂(たかぶ)る。白い便器についた跡から持ち主を想像する。
男は「フロール(花)」と名づけた目下お気に入りの女性を追跡するが、彼もまた女の「イマージュ」を追っていると言えるだろう。しだいに現実は残酷な貌(かお)を見せる。
こういう筆致の作品は、今の英米の作家には書けないのではないか。しばしば唸らされた。
かつてのラテンアメリカ文学ブームの折には、幻想みのあるマジックリアリズムが全盛だったが、今は土着的な香りはどこかに残しつつ、日常の風景のなかで心の闇に棲むモンスターを炙りだす秀作が多いようだ。来年の邦訳刊行も期待される。