私であることと私でないことの間に
二十世紀ポルトガルを代表する詩人、フェルナンド・ペソアについての、日本語で書かれた初の本格的評伝である。一八八八年、リスボンに生まれたペソアは、五歳のときに父を亡くし、三年後、母の再婚相手となった継父の任地である南アフリカに移住して、ダーバンの修道会学校で英語教育を受けた。十七歳で母国に戻り、英国の大学への留学を夢見ながら果たせず、以後、商業翻訳で生活しながら詩作をつづけ、リスボンの地から離れることなく、世間的にはほぼ無名のまま、一九三五年に四十七歳で亡くなった。
その長くはない生涯を、中世から近現代に至るポルトガルの歴史と、二十世紀初頭から二〇年代にかけてのヨーロッパの文学・文化状況のなかに位置づけ、作品の背景を丁寧にたどる本書は、しかしある意味で完結していない。なぜなら、ペソアこそ徹底した「未完の帝王」であり、またその輪郭を完全に描くことが不可能だからである。
ペソアには<異名者(いめいしゃ)>と名付けられた、彼自身とはべつの経歴と人格を持つとされる複数の書き手が内在していた。筆名や偽名とはちがって、それぞれにまったく異なる人格を備え、作風もばらばらな架空の存在である。ペソアの語源は、仮面を意味するペルソナ。すでにその名において、ペソアの一人称は他者に等しく、しかも無名性のなかに溶け出している。病理的な現象ではなく、これはあくまで創作の秘儀にかかわる人格が分有されたものだ。二十世紀後半に先鋭化してくる問題に、ペソアはいち早く触れていたのである。
代表的な<異名者>は、アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、そしてアルヴァロ・デ・カンポスの三人。彼らが登場したのは一九一四年、ペソアがポルトガルのモダニズムの先駆となった同人誌『オルフェウ』を創刊する前年の出来事である。個別の人格としてのプロフィールも整備されていく。
カエイロは一八八九年、リスボンに生まれ、一九一五年に結核で亡くなった。金利生活者で、生涯の大半を田舎で暮らし、自然を主題にし、世界は自分に関係なくそこにあるという異教的な感触を持つ『群れの番人』で知られる。
レイスは、一八八七年、ポルト生まれの医師で、イエズス会の教育を受けたラテン主義者として、ホラティウスの影響が濃厚な詩型に、否定に否定を重ねた悲観的な世界を嵌め込む。一九二九年にポルトガルを去り、ブラジルに渡ったとされ、代表作に『オード集』がある。
カンポスは、一八九〇年、タヴィラに生まれた造船技師。ポルトガルにおける未来派の推進者と目され、前衛的な作風だが、複数性に身を任せる点でペソアに最も近い。レイスとカンポスは、ともにカエイロを師と仰ぎ、いずれも「知性に対する感覚の優位」を特徴とする。
もうひとり、ペソアが自分の人格の一部だと認めていた<半―異名者>として、ベルナルド・ソアレスなる人物がいる。繊維輸入商会で会計補佐をしている独身者。書かれた時期も構成も正確には確定しがたい、五百二十ほどの断片からなる『不穏の書』が一九八二年に世に出るまで、ソアレスの全貌は謎に包まれていた。
ペソアが生前に発表したのは、詩篇三百、散文百三十、英語詩集三冊、そして自分名義の詩集『メンサージェン』のみで、ソアレスを含む<異名者>たちの作品は膨大な断片として筐底(きょうてい)に残されたままだった。『不穏の書』もそのひとつである。ソアレスは言う。「私とは、私であることと、私でないことのあいだの、夢見ることと、生きることによって私が作り上げられたもののあいだの、インターヴァルなのだ」
この一節は、ペソアの「なにものかであることは牢獄だ/自分であることは 存在しないこと/逃げながら わたしは生きるだろう/より生き生きと ほんとうに」という未発表の詩や、カンポスの「おれは何者でもない/けっして何者にもならないだろう」と綴られる「煙草屋」の詩句と隣接している。
存在しない無名の自分のなかを、それでもいずれ自分を構成するはずの小さな存在の粒が、ブラウン運動のように激しく動いてぶつかりあう。こうなると、「百は下らないという」<異名者>たちがじつは世に先に存在していて、ペソアと名乗る架空の詩人を共同で創出していたのではないか、それどころか評伝の作者も私たち読者も数ある<異名者>のひとりではないかという「不穏」な錯覚にとらわれそうになる。
しかしセバスティアニズモと呼ばれる神話的な国王待望論や秘教との関連を踏まえながら、全篇を通じて論拠とともに示されているのは、これが錯覚ではなく文学的に正しい体験でありうるということだろう。何者でもない複数の「私」たちが、それぞれの「私」を反射しながら豊かな無に向かうというペソアの撞着(どうちゃく)の詩学を理解するための、このうえない導きの書である。