晩年の門弟が描く師父への慈愛
夏目漱石は、明治四十年九月末、東京市本郷区駒込西片町(現文京区西片町)から牛込区(現新宿区)早稲田南町に転居した。東京帝大の職を辞し、専属作家として朝日新聞に入社したのがその半年前、すでに『虞美人草』を書き上げていた頃である。周囲をベランダに囲まれた和洋折衷の新居は漱石山房と呼ばれ、毎週木曜日に弟子たちが集まった。厳しい創作のなか、神経衰弱と胃病で時おり「頭を悪くした」こと、つまり癇癪(かんしゃく)を起こして周囲に当たることもあったが、そうでないときは思いやり深く、面倒見もよかった。若者たちは師を慕い、敬い、ずうずうしく甘え、かつ利用した。
自らも晩年の門弟のひとりで、『道草』や『明暗』の装幀を手がけた津田青楓(せいふう)が、蕪村の「蕉門十哲図」に倣った「漱石山房図 漱石と十弟子」(大正七年)で挙げている門人は、寺田寅彦、松根東洋城、岩波茂雄、森田草平、鈴木三重吉、阿部次郎、安倍能成(よししげ)、野上豊一郎、小宮豊隆、赤木桁平(こうへい)。十哲ではない内田百閒も描かれているが、師の娘婿となった松岡譲、久米正雄、芥川龍之介は含まれていない。文理を問わず後に活躍するこの多彩な弟子たちのなかに、もうひとり加えられるべきだったのが、本書の著者、林原耕三(旧姓岡田)である。
林原は明治二〇年、福井県の生まれで、中学時代に親元を離れて不規則な下宿生活をしていたため神経衰弱になり、この病質に後々まで苦しむことになる。漱石の門下に入ったのは一高に入る前、ちょうど山房に移った年のことだった。第一次漱石全集の校正に携わるなど、重要な役割を果たしているわりに文学史的な存在感が薄いのは、上記の俊才たちに比して書き物が多くないせいだろう。
しかし、門人であった十年、「ただの一度も先生に叱られたことがなかった」と記す林原には、師の懐に素のまま入り込んで心の奥の「シャイネス」から来る矛盾と苦しみを理解できる資質が備わっていた。野心と自己愛に満ちた眼ではなく、盲目的な信心からでもなく、精神的な父をいたわり、かついたわられるような相互関係と言ったらいいだろうか。師はそういう林原の健康状態を案じ、経済的苦境を救い、自作の肝に当たるような言葉を漏らした。鏡子夫人も心を開いていた。彼の描く文学的肖像には、気持ちの深さや正直さ、公正さが向かう方向に筆がやや遅れてついていく、なんともいえずもどかしい魅力がある。
逸話として強い力があるのは、『行人』の連載中、神経過敏になった夫の仕儀に苦しみ、不眠を託(かこ)っていた鏡子夫人が、やはり不眠のため極量のヴェロナールを常用していた林原に彼の処方箋でおなじものを調剤させ、夫には胃薬だと思わせて、服用上の注意を超える分量を一週間、毎日飲ませていたという話だろうか。執筆中に何度も筆を落とし、眠そうにしている師を見て真実を察した弟子は、追加分を要求する夫人に覚悟を決めて注進する。
作中に堪えがたい睡魔を活かした場面が書き込まれたのは薬効のうちかもしれない。とはいえ、林原が止めなかったら漱石の仕事はここで終わっていた可能性もある。単行本初版は一九七一年。半年前の文庫だが、深く人を見る忘れがたい事例として、あえて紹介した。