書評
『自由への道』(岩波書店)
二十一世紀的に蘇る成熟拒否の大作
何年か前、サルトルの『嘔吐(おうと)』を読み返したら、時代が一回転したせいか、ひどく現代的な作品になっているのに驚いた。ヴァーチャルな世界で完結しているオタクが三次元の現実(マロニエの根っこ)を目の当たりにして吐き気を覚えるという物語として読むことができたからだ。では、四十八年ぶり(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2009年)に新訳が出はじめた『自由への道』はどんな読解が可能なのだろうか? 少なくとも、第一部「分別ざかり」は、成熟拒否の「アホロートル小説」として読み解くことができる。ちなみに、アホロートルとは、変態の過程を経ず、幼形のままに成長する両生類。私は成熟拒否の若者たちをアホロートルと命名しているのだ。
しからば、「分別ざかり」とはどんな小説なのか? パリのリセで哲学教師をしているマチウは一九三八年六月の時点で三十四歳。恋人のマルセルとは七年も「妻問い婚」のようなかたちで関係が続いているが、両人とも「自由でいたい」という理由で結婚は拒否している。ところが、そんなとき、マルセルが妊娠してしまう。「どうします?」と問うマルセルにマチウは「そうだな……堕(お)ろしたら?」と答える。フランスでは、ボーヴォワール(マルセルのモデル)が先頭に立った妊娠中絶合法化運動が功を奏するまで、堕胎は犯罪だったから、恋人たちは非合法の医者や助産婦を探さなければならなくなる。要するに、よくある「妊娠小説」的な枠組みではあるが、そこはサルトルのこと、マチウの悩みも恐れも次のように「実存的」に表現される。
《マルセルは妊娠してる》。腹の中に、静かにふくれあがっていくどんよりとした小さな潮がある、いつかはそれが眼のようになるだろう。《そいつは腹の中にある汚物に囲まれて芽を出す、そいつは生きている》。
このあたり、なによりもタコやイカなどの軟体動物が嫌いだったというサルトルの胎児に対する恐怖がよく出ている。
物語は、代訴人をしている兄ジャック、ニヒリストの男色家ダニエル、ポール・ニザンがモデルといわれる共産党の闘士ブリュネ、マチウの教え子であるボリスとその妹イヴィックなどが絡んで重層的に展開していくが、興味深いのは、自己拘束(アンガジュマン)に関する議論よりも、むしろ、歳(とし)を重ねることへの恐怖である。
しかし、こうしたことすべてを通じて彼の唯一の関心は拘束されない状態でいることだった。(中略)自分は他のところにいる、まだ完全に生まれてきてはいない、という気がいつでもしていた。彼は待っていた。そしてその間に、そっと、陰険に、歳月がやってきて、背後から彼を捉(とら)えた。三十四歳だ。
これこそ、現代のアホロートルたちを捉えている感覚だろう。
「分別ざかり」で唯一の大人は妻の持参金で代訴人の株を買って成功している兄のジャック。堕胎費用を無心に来たマチウにこう詰問する。
おまえときたら、どこかで不正があると聞くとすぐに憤慨するくせに、もう何年も前から相手を屈辱的な状態で束縛している。だけど、それは自分の主義に違(たが)わないと言える自己満足だけのためだ。
若き日に読んだときは成熟拒否の弟マチウに肩入れしたが、いまでは兄のジャックが一番まともに思える。社会の全員がマチウになり、ジャックがいなくなってしまった時代だからかもしれない。新しい光源から光が当り、二一世紀的に蘇(よみがえ)ってくる二〇世紀の大作である。(海老坂武、澤田直・訳)
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