書評
『サルとジェンダー――動物から考える人間の〈性差〉』(紀伊國屋書店)
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フランス・ドゥ・ヴァールは『道徳性の起源』などの著作で知られる霊長類研究の第一人者で昨年惜しくも亡くなったが、その遺作と見なしていい『サルとジェンダー 動物から考える人間の〈性差〉』(柴田裕之訳 紀伊國屋書店 三二〇〇円+税)が出た。これは性差について考えるすべての人が参照すべき名著であると断言してよい。著者の姿勢は次のように要約できる。
①霊長類学者として霊長類から受け継いだものを説明することで性差についての誤解を正すことを目標とする。
参照対象となるのは霊長類、中でも最も人間に近いチンパンジーとボノボである。チンパンジーは競争的で攻撃的、男優位なのに対し、ボノボは平和的で協調的、セックス好きで女優位という特徴を持つ。人類はその両方の側面を合わせもっている。DNA分析に基づくヒト科の系統樹では「ボノボとチンパンジーが分かれたのは、ヒトが彼らの祖先と分かれたときよりもずっとあとなので、彼らはどちらも私たちに同じぐらい近い」からだ。
②説明に当たって注意すべきは、「いちばん気に入った種を勝手に選び取るような真似は、けっしてしてはならない」こと。
つまり観察にジェンダー的な価値判断をあらかじめ導入してはならないし、性差を誇大に宣伝することも、性差が無意味であると主張することも避けるべきだ。私たちの主要な目的は、精査に耐えるような知識を得たり説明を考えたりすることだ。
③ジェンダーが生物学的な意味での男・女を社会・文化的な意味でも男・女に変えるものという理解ならジェンダーは有用な概念である。ジェンダーは類人猿から始まっている。
以上のような前提から出発して、著者は専門であるチンパンジーとボノボの生態を観察・分析し、平和的であるボノボの社会ばかりか競争的であるチンパンジーの社会にも利他性や協調性があり、さらにはケンカの仲裁も和解もあるという見解を披露したあと、これをジェンダー的観点から再考察し、次のような結論に達する。
私は、ジェンダーのない世界にも生物学的な性別のない世界にも暮らしたいとはけっして思わない。(中略)問題なのは、性やジェンダーの存在ではなくて、それにまつわる偏見や不公平であり、従来の二分法に限界があることだ。
賛成である。
では、ジェンダーに関する著者のこうしたスタンスはどこから来ているか? それはセックスと妊娠・出産を関連づけたのは人間だけであるのはなぜかという疑問であり、その疑問はLGBTという今日的問題とも結びついている。
私たちの種以外に、セックスが子孫の誕生につながることを知っている種が一つでもあるという証拠はない。(中略)つまり、繁殖という目的は、セックスを促してはいないということだ。(中略)彼ら[動物]にとって、セックスはただのセックスだ。
では、動物のオスが行う子殺しという現象はどのように説明すればいいのだろう。
動物のオスには自分の子と他のオスの子を識別する能力が備わっているのか、いるとすればそれは嗅覚だろうか?
残念ながら類人猿は視覚優位になった分、嗅覚は弱くなっている。
霊長類のオスには、父子関係という考え方はない。自然はそれに代わるものとして、うまくいく単純なルールをオスの頭に植えつけたのかもしれない。それは、『遠からぬ過去にセックスをした相手の子供は寛大に扱い、支援せよ』といったものだ。
このルールは霊長類のメスたちが子をオスに殺されないために考え出した戦略と見事に一致している。できる限り多くのオスたちとセックスすることである。
セックスが浸透し、女の結束が固いボノボの社会は、霊長類の世界でオスによる子殺しに対して最も効果的なメスの対抗戦略をとっている、と私は思う。
ところで、セックスに開放的で両性愛者のボノボにはいわゆるLGBのすべてがあるが、他の動物にもLGBは観察できる。なぜか?
動物がセックスをするのは、互いに惹かれるから、あるいは快楽が得られることを学んだからであって、子供が欲しいからではない。(中略)性的欲求は、社会生活の別の現実――同性間の絆作り――とも自由に手を組めるのだ。(中略)つまり、特別の目的を持って進化し、異性愛行動と際立った対照を成す特性として同性愛行動を見るのではなく、強力な性衝動と快楽を求める傾向が、同性に惹かれる傾向と混じり合った結果として見るのだ。
性差という人間の根源的な問題に霊長類研究から迫った説得力のある力作である。
週刊文春 2025年4月24日
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