種にはそれぞれの「認知」がある
十一月初旬のある朝、オランダの動物園でメスのチンパンジーのフラニェが寝床のワラをかき集めて小脇に抱え外へ出て行った。室内は暖かいのに、昨日寒かったから今日も外は寒いだろうと推測しての行動である。彼女は息子とワラの中で気持よさそうに過したとある。このような動物の賢さが次々と紹介され、驚きっ放しだったというのが、本を閉じた時の感想である。著者は、霊長類の社会的知能研究を軸にあらゆる動物の賢さの研究を楽しみ、そこから進化認知学という新分野を生み出した魅力的な研究者である。
事例を続けよう。ボノボのリサラは赤ん坊を腰にしがみつかせ、背中に七キロもの石をのせて五〇〇メートルほど移動した。途中で石を降ろして何かを拾って。一〇分ほどで着いた先にあった硬く平たい岩の上のゴミをさっと払い、拾ったアブラヤシの実を置いて、運んできた石で実を叩(たた)き割ったのである。人間以外の生きものは皆今を生きており、未来を推測したり計画したりしないと言われてきたが、フラニェやリサラの行動はそれ以外の何物でもない。
記憶についての実験も面白い。大きなタイヤにリンゴを隠すのをチンパンジーのソッコだけが小窓から見えるようにし、その後皆を外に出した。ソッコはタイヤの中にリンゴがあるのを確認したがそのまま知らん顔で過し、二〇分後皆が他のことに夢中になったところでリンゴを取りに行った。ところで、その五年後別の個体ナターシャに同じことをした。今回は地面の中にリンゴを入れ砂と葉で隠したのだが、ナターシャもまたその場を行き過ぎ、一〇分ほどして戻ってリンゴを掘り出した。その賢さに感心するが、更に驚くのはここからである。それを見ていたソッコがタイヤめざしてまっしぐらに駆けていったのだ。五年前のたった一度の経験を覚えていたとしか思えない。
賢さは霊長類に止まらない。ニューカレドニアカラスに肉片を示す。それをとる長い棒は格子の向うにある。近くの箱に入った短い棒で長い棒を引き寄せられるようにしておくと、テストした野生の七羽すべてが道具のための道具を使ったのである。サルはこの課題が苦手でありカラスの方が上とわかった。
著者はチンパンジーが争いと協力のいずれをとるかを試す実験をした。一五頭のコロニーのフェンスの上に、二、三頭の個体が別のバーを同時に引くと報酬が得られる装置をつけたのである。仲間の組み合わせはたくさんある。競争心で混乱するか二頭または三頭の組み合わせをうまく作って報酬を得るか。途中いざこざも見られたが結局意図の共有が生れ、遠くの飼育舎から二頭揃(そろ)って現場へ行く姿も見られた。学ぶところありだ。
長い間、知能は人間ならではの特性であり、文化・共感なども人間のものとされてきた。これまでの研究の多くは、人間を基準として人間と動物の知能を比較してきたが、それぞれの種にそれぞれの「環世界」があり認知があると考えなければならない。その考えのもとに組み立てる実験によって人間の認知は動物の一種として進化してきたものであることが見えてくるのである。人間独自の賢さは他の動物たちの賢さを知ることができることだと言えよう。
ゾウ、イヌ、トリ、タコなどさまざまな動物で研究対象に名前をつけており、他の種の理解の手段として人間の共感能力を奨励したユクスキュル、ローレンツと並び今西錦司を評価している。研究のありようの変化を感じる。(松沢哲郎監訳、柴田裕之訳)