素読を尽くし学び成した書
大学のオリエンテーションではシラバスでつまらなそうだと感じた科目を取れと勧めていた。登録学生が少なければ教師を独占できるからだ。大人数の教室での授業より「はるかに効率的」である。訳者独自の解釈による『論語』はこうしたマンツーマン教育の効果を示した古典のように思えてくる。「思うに論語を読みとくポイントのひとつは、孔子が数多い弟子たちの一人ひとりに、個別に語りかけたというところにあるのではないか。その人物の性格や境遇におうじて、孔子はもっとも適切な教えを簡潔に語ってみせた」(「訳者あとがき」)
つまり弟子の性格や資質により孔子はアドヴァイスを変えているのだ。たとえば猪突猛進型の子路には「すぐに行なうのはどうか」と即聞即決を諭すが、控えめな冉有(ぜんゆう)が同じ問いを発すると「聞いたらすぐに行なえ」と果敢さを勧める。この答えの矛盾に公西華が当惑すると、孔子は「求(冉有)は消極的だから励まし、由(子路)は人をおしのけるから抑えたのだ」と述懐する。
このポイントを押さえておくと鶴ケ谷訳『論語』の解釈の斬新さが際立ってくる。弁舌に巧みで理財の才にも恵まれた自信家の子貢が、豊かでも高ぶらないならどうでしょうと自負を込めて尋ねると、孔子は礼儀を大切にと一段上の境地を示し、子貢が「人格をさらに高めてゆくということですね」と納得すると「きみは一を聞けば、二を悟る」とその聡明さを称賛する。学問好きな子夏には学問に名誉・名声を求める類いの「小人(しょうじん)の儒(じゅ)」とならずに自らの向上を求める「君子の儒」となるように勧める。批判と褒め言葉とバランスが絶妙なのである。『論語』が教師や経営者のバイブルとなりえるゆえんである。
ことほどさように、鶴ケ谷訳『論語』の特徴は深い学識に支えられたその明快さにある。それは「巧言令色、鮮(すく)なし仁」が「口が達者で人あたりがよい。こういう手合いが人格者であることはまれだ」と訳されていることから明らかだろう。では、訳者のそうした学識の淵源はどこかというと、それはひたすら読書し、徹底して考えることにある。『論語』のあらゆる参考文献を古今(朱子、伊藤仁斎、渋沢栄一、貝塚茂樹、宮崎市定)ばかりか東西(アーサー・ウェイリーやエズラ・パウンドの英訳、アンヌ・チャンの仏訳)まで渉猟した上で検討を施して最適解を割り出し、しかもその学びの過程に深い喜びを感じ取っていること、これが大切なのだ。まさに「学而篇」の「学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや」(訳文「学んだ知識を自分のものにしてゆく。そこに喜びがうまれてくるのではないか」)そのものなのだ。
しからば学びの方法は? これがなんと素読なのである。ドイツ文学者の南原実に「漢籍を読みなさい」と勧められたことから三十歳で『漢文大系』の素読を始めた訳者は「毎朝、起床と同時に記憶すべき一節を決め、(中略)音読をくり返して聴覚に訴え、より深い記憶にとどめる」(「解説」)ことにした。
「解説」の最後に「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以(もっ)て憂いを忘れ、老いの将(まさ)に至らんとするを知らざるのみと」という孔子のオートポルトレが掲げられているが、これは大読書人である訳者にいかにもふさわしい。名訳であるばかりか決定的な名著。
【イベント情報】 鶴ヶ谷真一 × 鹿島茂
『論語』(光文社古典新訳文庫)を読む
【日時】10/12 (日) 19:00 -20:30
【会場】PASSAGE SOLIDA(神保町)
東京都千代田区神田神保町1-9-20 SHONENGAHO-2ビル 2F
※1Fよりお入りいただき、階段で2階にお上がりください
【参加費】現地参加:1,650円(税込) 、オンライン視聴:1,650円(税込)(アーカイブ視聴可)
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