共振作用による思想体系の変遷
中国において、物事の本質を究めようとする知的探究がどのような経過をたどって今日にいたったのか。そのことについて、外部との共振作用に目を配りつつ、批判的な検討が行われた。狩野直喜『中国哲学史』以来、じつに約七十年ぶりの挑戦だ。過去の思想体系の揺らぎを検証するのに、欧米の思考原理を主たる参照系としたのは、むろん西洋哲学という強力な磁場が引き起こした引力の変化を念頭に置いたものだが、それ以上に、経験世界から導き出された認識体系の特徴を際立たせるためでもあった。
時系列に沿った解析の技法によって、見えてきたのは哲学における分節化の構造と自己更新の活力である。
儒学は古典的な人間中心主義に傾いており、生き方や社会のあるべき姿にこだわっていた。そこから導き出されたのは主観意識の関与と、そこに立脚した秩序の確立である。
それに対し、老子は自然の観察から規則性を見いだし、その法則性を社会のあり方に応用しようとした、と著者が言う。さらに、司馬遷の叙述を手がかりに『韓非子』を、老子の政治哲学を実践に応用するテクストと位置づけ、アンヌ・チャンの説を踏まえながら、『淮南子(えなんじ)』にいたるまでの道家思想もよりよい政治のあり方を目指したものだとの結論が導き出された。荘子については一歩踏み込んだ検討がほしいが、的確な原典の吟味により、諸子百家はおしなべて政治哲学として構想されたという事実が浮かび上がってきた。
本書のもう一つの力点は、中国哲学と外部との共振作用に対する注目だ。古代の仏教伝来はいうまでもなく、近世におけるキリスト教との出合いも、近代西洋哲学の受容も中国哲学の遺伝情報を書き換え続けてきた。
仏教との出合いによる衝撃と、怒濤のような感化力はおよそ今日では想像できないほど大きかったであろう。儒学回帰を目指す動きは文化の自己防衛によるものだが、一面において、仏教がもたらした精神的な地滑りの大きさを物語っている。
六朝の文学批評や唐の古文運動が哲学の問題として吟味されたのも、仏教的思考は学識や教養を通して、内面世界への深い浸潤があったからだ。朱子学が言語哲学の様相を呈しているのは、むろん劉〓(りゅうきょう)の文論や韓愈(かんゆ)の古文復興を抜きにしては語れないが、儒学の基本概念の再定義は宗教言語の力強さに啓発された一面もあった。
中国哲学史において、王陽明の心学は認識論において画期的なものだ。「心外に物なし」という言葉は「我思う、ゆえに我あり」に比肩できるほど深遠なる思弁性を持っている。ここにいたって、政治哲学、言語哲学に続いて、知覚の哲学への道も開かれた。
仏教に比べて、キリスト教の影響は総じて軽微なものである。そのかわり、中国哲学に対する西洋の受け止め方は本書のもう一つの読みどころになっている。欧州の中国文明観が周期的に変化するというレーモンド・ドーソンの説は、どうやら哲学の他者認識にも当てはまるようだ。
近現代の中国哲学については成立の時点にさかのぼって語られているが、興味を引くのは、戦後の台湾における新儒家と、近年の大陸の研究動向である。専門用語の多い領域だが、簡にして要を得た説明のおかげで、知の迷宮めぐりが楽しいものになった。