書評
『学校では教えてくれないシェイクスピア』(朝日出版社)
当時から現代をも学べる機会
シェイクスピア演劇の研究者が夏休みの五日間に、男子校二校の生徒たちに向けて「シェイクスピアを批評的に楽しむ」ためのレクチャーとワークショップを行う。ちなみに、この二校はどちらも進学校である。高二、高三の夏は大学受験の勝敗を決するなどと煽られる時期だが、こうした教養講座に少なからぬ数の受講者が集まっていることを頼もしく思った。
北村紗衣はフェミニスト批評の専門でもあるが、どうして女子校ではなく男子校で講義を行ったのだろう? 北村はその理由の一つとして、中学・高校において女子校の生徒はほぼ必ずジェンダー教育を必ず受けて社会に出るのに対して、男子校ではジェンダーについて学ぶ機会が少ないという現実を指摘する。つまり、自分たちがどれだけ特権的な立場にいるか自覚する機会がより乏しいということだ。
シェイクスピア劇には男性のホモソーシャルな世界が展開する作品が多く、女性の役は登場場面もセリフも男性に比べて圧倒的に少ない。北村によれば、これには劇団の人員の都合もあったのだと言う。英国ルネッサンス演劇の時代は女性が舞台に上がることがタブーとされた。すべての女性の役は十代から二十歳ぐらいの男性が演じたが、そんなに若くして達者な芸を披露できる者は限られていたのだろうと。
さて、こうした男性中心の劇には、いわゆる有害な男性性が蔓延していた。「男らしさにこだわるせいでメンタルヘルスの状況が悪くなる人」が沢山いる。リア王もマクベスもロミオもそれに当たるだろう。こうしたことに気づくためにもシェイクスピアは格好のテキストなのだ。
そんなわけでこの講義の受講者たちは最初に「クレオパトラ」「ヴァイオラ」「アリス」といったシェイクスピア劇の女性人物の名前をくじ引きで割り振られる。
シェイクスピアの生涯、作品解説、登場人物、英語の解説、翻案ものの鑑賞と授業は進んでいき、本書「第二幕」の最後に、ロミオとジュリエットの舞踏会での出会いのシーンを演出する課題が出され、一気に盛りあがる。時代、場所、衣装、そして出会ったふたりが踊る曲も自分たちで決めて演出するのだ。一種のアダプテーションである。優れたアダプテーションを行うには、高度にクリティカルな目で原作を読み解く必要があるだろう。
「シェイクスピアのお芝居は現代の我々のために書かれている」という言葉を北村は紹介する。劇作は“新訳”(新演出)されることで常に生まれ変わり普遍のものになるということだ。
平安時代のロミジュリも誕生する。美しい純愛劇に収斂しないようあえて「ノイズ」を取り入れ異化効果を演出する班もある。
議論が白熱するのは、現在のウクライナ侵攻を導入する演出プランが出たときだ。その生徒は自分たちがそれを題材にするのは「無責任」ではないかと疑問を提起する。つまり、フィクション創作の当事者性とその正当性を問うているのだ。なら、ロシアのチャイコフスキーの曲を使うのは不当か? これに北村はどう答えるか?
読み終えてこれは、批評とはなにかを追究する五日間でもあったことを強く実感した。
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