昭和の大作家たちの熱愛ぶり
昭和のある時期の文学や演劇の関係者(あるいはその愛好者)にとって、ハムレットが悩める青年の代名詞だったらしいことはなんとなく知っていた。様々な画家がオフィーリアを題材にしたように、様々な(たぶん主に男性の)文学者が、好んでハムレットを題材にしたことも。が、この本を読んで私はびっくりしてしまった。ここまでだったとは――。燃えるように艶やかな色合いの(けれど描かれる登場人物によって、温度は風のようにも氷のようにも変化する)口絵と、軽やかで風通しのいい現代的な詩で、本書は幕をあける。どちらも書き(描き)おろしなのだが、次に現れるのが太宰治の「新ハムレット」(初出一九四一年)で、芥川比呂志のエッセイ三つ(初出一九七一~七五年)、志賀直哉「クローディアスの日記」(初出一九一二年)と続く。新旧いろいろ。一体なぜいまこういう風変わりな本が忽然と出現することになったのか、は巻末の編集後記に書かれている。
貴重なコラージュというべき本だ。それぞれの書き手の自由さと誠実さがまぶしい。みんな、随分強烈に『ハムレット』に触発されたんだなあと思う。たとえば大岡昇平は「オフィーリアの埋葬」のなかで、その清純さと儚さ、悲劇的な発狂と歌声、花々が暗示する言葉と謎めいた最期で鮮烈な印象を残すとはいえ、原作ではほとんど何の発言もさせてもらえないオフィーリアに発言の機会を与えている(なんと、オフィーリアまで幽霊になってでてくるのだ)し、ラフォルグ(吉田健一訳)の一編は、戯曲というものの性質上どうしてもこぼれ落ちてしまうディテイルを、匂やかに濃密に言葉で現出させている。小林秀雄と中原中也という二人の訳者による同一の詩を読み比べられるのも愉しい。
作中劇として『ハムレット』がでてくるものの、原作の解釈などはなく、潔いまでに娯楽に徹した謎とき小説である小栗虫太郎「オフェリヤ殺し」の大胆さには驚くし、おなじく作中劇として『ハムレット』が使われている久生十蘭の一編の、端正さと結末にも違う意味で驚く。
白眉は「ホレイショー日記」(福田恆存)。これは一九四〇年前後のイギリスを舞台にした小説で、ホレイショーを演じる役者の日記という体裁をとっている。主人公は自分の思念と実生活と、舞台上での(オフィーリアと肉体関係があったかもしれないという解釈を加えた上でのホレイショーとしての)人生のあいだを往来し、妻と妄想上の愛人(もちろんオフィーリア役の女優)のあいだで揺れ悩み、さらに社会とは何か演じるとは何かイギリス国民としての矜持とは何か、などなど、およそありとあらゆることを考えて言語化する。おまけに夢のなかでも頻繁に懊悩するので、彼の自意識と混乱した悩みの広がりには果てというものがない。ひたすらその独白が続く小説なのだが、これが絶妙に原作へのオマージュにも、ハムレットとホレイショーの造型(役割)比較にもなっている。そして、そんな彼の横には奇妙なほど静かでつかみどころのない妻と、奇妙なほど饒舌な妄想上の愛人がいるのだ。この愛人が、「どこか男のひとのいない世界へいってしまいたくなりますわ。でも、そんなところありませんわねえ……」と言うのがおもしろい。