読後永年の嫌悪感、ほとんど消えた
私事から始める不躾をお許し願いたい。評子は戦前から東京・三鷹に住んでいる。住まいはJR駅からほど近く、玉川上水沿いの、今は「風の散歩道」という道路沿いの一角で、太宰が山崎富栄さんと入水した場所を示す記念のプレートを埋め込んだモニュメントも極近い。戦後しがない開業医となった父は、何回か太宰の寓居に往診したこともある。つまり太宰は、こよなく「身近」な文士であったのだが、私は太宰の小説に、生理的に受け付けないものを永年感じてきた。その点では、本書でも対称軸として言及される三島由紀夫の太宰観に近いかもしれない。ただ、本書を読んで、明らかに八十も半ばを過ぎた私の中に変化が生じた。それを書かねば、と思ったのである。
本書を読むに当たって、著者の独特の表現も含めて、幾つかのキーワードがある。先ずは「人非人(にんぴにん)」、「言語的異性装趣味」(著者の造語、通常の表現では「女性独白体」)、「サバイバーズ・ギルト」(生き残った者の罪障感)、「家庭の幸福」など。著者は「人非人」という言葉を色々な意味で使う。例えば、参政権を持つ前の日本社会における女性は、「人として扱われなかった」という意味では「人にして人に非ず」。戦前の天皇もまた「現人神(あらひとがみ)」つまり神なるがゆえに「人にして人に非ず」。「などてすめろぎは人間となりたまひし」と三島は嘆じたが、彼には「人にして人でない」状態こそが天皇のあるべき姿だった。他方太宰の作品の一つ『人間失格』もまた、「人」でないことの意味が問われている。
「言語的異性装趣味」は、彼の作品の中に多い、少女、あるいは女性が語り手となる構成を指す。敢えて「女性独白体」という通常の表現を使わないところに、著者の太宰理解の重要なポイントの一つがあるが、それは読んでのお楽しみにしておこう。勿論実際に彼の手に入った少女や女性の手記を、そのまま(ではないことは、細かく考察されているが)小説に仕立てる彼の手法も含めて、ここでの著者の分析は面白い。
「サバイバーズ・ギルト」は、勿論あの戦争で「散華」した同時代人たちに引き比べて、生き残った人間が、何分かは等しく持つ感慨には違いないが、人間天皇の、戦後(無論GHQの強要があったには違いないが)、皇后との睦まじい情景が新聞に紹介される、つまり、天皇家の<家庭の幸福>が世間に喧伝されるに至った事態を象徴として、「家庭の幸福」を人間として、どこまで信じられるか、という問いに、太宰自身、答えようとした点を読み取るように、著者は勧める。正規の妻を軸とした「家族」を裏切る行為を重ねた挙句に、愛人と情死を遂げる、という、常識的にはやりきれない「不道徳」さの裏に、「家庭の幸福」の虚構を暴くことを、太宰は身を以て実行したとも受け取れる。
対称軸として描かれる三島ではあるが、天皇を巡る感覚でも、一見真反対に見えながら、通底する面にも気づくべき(彼ら自身もそう感じていたか)、という指摘も心に響く。最後に置かれた「終章」は異例の長さの「あとがき」でもある。著者の想い入れを深く感じる文章である。とにかく、読後永年の太宰への嫌悪感は殆ど消えた、と告白しておきたい。
太宰は、三鷹の禅林寺の墓場に、森林太郎らとともに眠っている。