限りないエムパシーがつむぐもの
オリヴァー・サックスと言えば、アメリカで一時代を画した脳神経内科の医師であり、かつベストセラー文筆家であった。日本でも、多くの翻訳書が推理小説の出版元で知られる早川書房や、晶文社から刊行されている。彼の作品の一つを元にした映画「レナードの朝」は、大変評判になったから、それで名を知った方も多いだろう。彼の著作は、一つ一つの事例を担う人間個人を主人公にした、一種の物語で、場合によっては、診察室などを離れて、独りの人間の生活そのものに踏み込んで、心の苦しみを共にする、よく使われる言葉の「エムパシー」(empathy)を大切にする姿勢を貫いてきた経験を生かした物語に満ちている。彼自身、眼の障害を含め、深刻な病者としての経験も後押しをしているのだろうが。とにかく、実に多くのベストセラーの著者として、アメリカでは飛び切りの著名人である。メディアからインタヴューを受ける機会が多かったと思われるが、本書はそうした記録の一部を編集・再現したものである。先(ま)ず感心するのは、聴き手たちのそれぞれが、サックスの著作を、実に綿密に読み込み、扱われている事例を我が物にした上で、深い対話を重ねている点である。ここでも、聴き手と語り手の間に、快いエムパシーが生まれているのが、読者にも響いてくる。
そうした内容だから、聴き手は、時にサックスが答をたじろぐほど、彼の著作の中に現れる出来事、人物、彼自身の内面などの細部にまで立ち入って、質問を重ねたりするので、それらを熟知していなければ、読む楽しみは半減する。訳者は、その辺を考慮して、詳細な訳注を附しており、その努力には頭が下がるが、それでも、隔靴搔痒の感が生まれるのは仕方がない。むしろこれを機会に、数多い彼の著書を読もうとする読者が増えれば、それでよいのだろう。
脳神経内科の医師と上に書いたが、そして両親をはじめ、医師の家庭に育った彼ではあるが、すでに述べたように、単にクリニックの一室で、白衣を着て患者を診断し、治療に専念する、というだけの医師ではない。それゆえ、治療者も患者あるいはクライアントも人間そのものが、時に過剰な、と思われるほど赤裸々に露わにされる場面もある。例えば本書終わり近くで語られるサックス自身の同性愛的嗜好、やはり医師であった父親からは肯定的に受け止められ、母親からは断固たる拒否に出遭ったその事情に関しても、ほとんど衣着せずに語られている。
脳の疾患に関しては、しばしば、病者が持つ特別の才能が問題になるが、この点も、事例に即した物語を土台に対話が進められる。無作為的な行動(チックなど)で知られるトゥレット症候群の病者に関する聴き手とサックスとの遣り取りも、興味深い。そこから対話は、彼のキー・ワード「逆説的」を惹き出す。つまり、ある障害があるとき、人間はそれまで充分に機能を発揮してこなかった何かを、更(あらた)めて高度なまでに再組織化することがある、というのである。
一つ特に印象に残った表現を引用して、後は、彼の厖大な著作も含めて読者に任せよう。問題は「その病気にはどんな人たちがかかっているか」だ。