本来の自分奪う「他人のまなざし」
著者はてんかんと精神病理学を専門とする精神科医で、自身をADHD(注意欠如・多動症)と診断する立場から『発達障害の内側から見た世界 名指すことと分かること』(講談社選書メチエ)という著書もある。発達障害に病理としての本質があるという立場を取らず、むしろニューロダイバーシティーという多様性の視点から、発達障害の位置付けも相対化していこうと目論んでいるようだ。著者は本書で、他人の「いいね」に縛られるような「健常者」、いわゆる定型発達者も「ニューロティピカル」という病理を持つのではないかと主張する。これが本書のタイトルにもある「健常発達という病」である。対比されるのは、二人の女の子、AちゃんとBちゃんだ。怪獣や昆虫に夢中で、他人からの評価はおよそ眼中にないAちゃんと、他人の「いいね」に敏感なBちゃん。二人はランドセルの色がかぶってしまい、それが気に入らないBちゃんは取り巻きと一緒になってAちゃんに「いじわるコミュニケーション」(「いじコミ」)をしかける。しかし人間関係に無関心なAちゃんは「いじコミ」に思ったほど反応しない。おわかりのとおり、Aちゃんにはどうやら発達障害傾向がありそうだ。ただ一点、野暮な指摘をしておけば、現代のSNS上で「いいね」を集めるのはBちゃんよりもAちゃんだろうと評者は考える。
本書の後半は一気呵成(いっきかせい)に、人間の本質に迫る哲学的議論になっていく。思想、哲学にも通じた精神病理学者の面目躍如たるところで、非常に興味深い議論が展開していく。
著者はサルトルを援用しつつ、人間存在のありようを、机や椅子のような存在と本質が一致している「即自」存在とは異なり、自分の存在に意識を向けるような「対自」的なものとみなす。「即自」と「対自」の違いは「無」、すなわち余白や隙間を含むかどうかだ。無=隙間というのは、この自分と「本来の自分」との間の隙間を意味する。サルトルによれば、そこの隙間を奪うのが「他者のまなざし」なのである。
著者は子ども時代きゅうりが嫌いで、無理に食べさせられても吐き出していた。他者のまなざしを意に介さず、「嫌い」を全身で表出できた。このときの著者は、先述の「隙間」が小さく、身体的な反応と自分自身がほぼ一致していた。この感覚は「デカルト的コギタチオ」と呼ばれる。しかし大人になると、「嫌いなのに好きなフリをする」といった場面が増えてきて、その「隙間」が開いてくる。たとえば「Aちゃん」(発達障害)では隙間が小さく、「Bちゃん」(健常発達)は隙間が大きい。
精神病理学には、このいずれに人間の本質をみるかという対照的な考え方がある。伝統的には後者が優位だが、著者も言うように、こちらは他者の「いいね」(=まなざし)に執着し束縛されるという意味で「健常発達」の病理を抱える。著者は木村敏(びん)、ドゥルーズらの思想に基づき、先の「デカルト的コギタチオ」の感覚に、健常発達の病理から解放される糸口を見出している。外部から不意に「やってくる」その感覚を捉えるには、私たち自身が秘めたADHD的なポテンシャルを大切にすべし、という著者の指摘に大いにうなずいた。