「母の娘」という呪縛、空虚と罰の匂い
シルヴィア・プラスについては、ガスオーブンに頭を入れて中毒死した天才詩人、というくらいのイメージしか持っていなかった。本書は彼女が書いた唯一の長編小説であり、少女版『ライ麦畑でつかまえて』として、欧米では広く読まれているとのこと。私が好きなアーティスト、ラナ・デル・レイの愛読書で、その新訳が出たということで手に取った。本書はプラスの半自伝的な小説である。主人公であるエスター・グリーンウッドは大学で優秀な成績をおさめ、コンテストで書いたエッセイが評価されて、ファッション雑誌のインターンとしてニューヨークに滞在する。若い女性としては人も羨む成功ぶりだ。しかし彼女は、雑誌編集者に大学を卒業したらどうするのかと問われて「自分でもよくわからないんです」と答えてしまう。
そう、本作はエスターが何者かたらんとして何者にもなれない、その遍歴を痛みというリアリティのもとで容赦なく描き出す。なろうと思えば詩人にも、教授にも、幸せな妻にもなれたかもしれない。それなのに、少し迷っただけなのに、気がつくと彼女は精神病院で電気ショック療法を受けるはめになり、輝かしいはずの未来が閉ざされていく。
とはいえ私には、本作の「痛み」に十分に共感できたという自信はない。おそらくは女性読者の方が、この痛みのありようを深く理解できたのではないだろうか。それというのも、評者はエスターの「痛み」の背景に、その「母」の存在を強く感じるからだ。
事実、作者のプラスは母と異常なほど親密であり、プラス自身、「どこで母が終わり、どこから自分が始まるかわからない」と記している。こうした関係は女性特有の「空虚感」をもたらすとされる。
母が娘に及ぼす影響は一種の支配である。娘は支配に甘んじながら、男性を惹きつける女性らしい女性でありたいと望む。そのいっぽうで、無意識にその支配を逃れようと、詩人や教授といった知的達成に向かおうとする。女性性の追求は母による支配の帰結だからそこには自分はない。しかし、知的達成は母への抵抗だから、母の愛を失うリスクがつきまとう。ここにエスターの空虚感の本質があったのではないか。
その意味でベル・ジャー(実験で用いられるガラスの覆い)は、彼女の世界を制約するスクリーンであり、すなわち母の掌(てのひら)である。さらにその背景には、女性に「ガラスの天井」を強いるような社会システムが控えている。スパイ疑惑で電気椅子にかけられたローゼンバーグ夫妻と、エスター自身が精神病院で経験する電気ショック療法はここで重なる。それらは社会≒母に歯向かった(とされる)者が受けるべき罰なのだ。
本作ではこうした葛藤は明示されていないため、エスターが抱えている「何者にもなれない空虚感」が、特に男性読者には理解されにくいかもしれない。一方でこうした空虚さの感覚は、当時も今も変わらずに存在する。本作が若い世代の女性たちに繰り返し発見されるのには、そうした背景もあるであろう。エスターの「わたしは、わたしは、わたしは」という独白は、「母の娘」からの解放の呪文でもあったのだ。