偶然性と他者性が生む奇跡的瞬間
評者は精神科医ではあるが、某老舗映画誌で一〇年以上も映画評を連載している。最近の濱口(はまぐち)作品は公開されれば必ず取り上げてきた。最新作「悪は存在しない」を観た人は、あの不可解で衝撃的なラストをご記憶のことと思う。あの“不可解かつ必然”という奇妙な感覚とともに。映画批評には二つのスタイルがある。映画を「何か(政治、社会、作家性etc.)のための映画」として観るか、「映画のための映画」として観るか。評者のスタイルは前者だが、濱口にとっての映画は明確に後者だ。映画という表現手段を偏愛し、その表現をさらに深化させるような作品こそを傑作とみなす、という意味で。実作者としての視点から顕微鏡で観察したように記述されるその批評には圧倒される。濱口はあたかも、フィルムには偶然や真実、ときには魂までもが映し込まれる可能性があると信じているかのようだ。
映画の素晴らしさは、本来なら一回限りの奇跡的瞬間を、カメラが機械的な無関心さのもとで記録してしまうところにある。濱口はその「無関心さ」に注目する。そう、カメラと、その構造を反転させたような映写機は、目前の光景をただ記録し、ただ投影する。そこには鑑賞者に対する「機械的な無関心」があり「自動性」がある。そこに濱口は映画の「他性」を見て取る。これが本書のタイトルの由来の一つである。
濱口は黒沢清の指摘を受けて、映画はそのフレームの外側の要素、たとえば俳優の来歴などを密輸入すると述べる。カメラはその徹底した無関心さのもとで、俳優のからだの状態を率直に記録する。こうしたカメラの「他性」の介入によって、映画のショットは撮影現場のドキュメンタリーという性質と、フィクショナルな真実性の双方を帯びることになる。この両義性を最大化することで傑作が生まれる。また、だからこそ最も素晴らしい演技には「必ず即興的な瞬間が含まれ」、「捉えられてしまった偶然がある」のだ。
興味深いことに、以上の前提のもとで語られる演出の技法論は、対話的な治療実践のそれと響き合うような要素を多分に含むことになる。
「イタリア式本読み」という手法がある。短編映画「ジャン・ルノワールの演技指導」で紹介され、濱口の映画「ドライブ・マイ・カー」にも登場する演技指導法である。それは簡単に言えば、電話帳を読むように脚本のセリフを読むことである。いかなる感情も交えず、棒読みで。そうした本読みを繰り返すことで、テキストとからだは強く結びつけられると同時に、そのセリフを口にする時の感情は未決定の状態に置かれることになる。つまり本番においてどのような感情が生ずるかは、まったくの偶然に委ねられることになる。そのような、「正確な偶然」とも言うべき瞬間を捉えるべく、俳優個人の準備や演技プランを入念に削(そ)ぎ落とすこと。こうした「学び落とし」が「イタリア式本読み」の真髄である。
私たちも治療場面において対話する際、事前のプランはいっさい立てない。治癒という目標すらも脇に置く。「イタリア式本読み」でも「良い演技をする」といった目標は考慮されないように。なんらかの目標や予断を持つことが、対話への没頭を妨げ、対話が呼び込む偶然性を排除してしまうおそれがあるからだ。
濱口は、そうした偶然性を呼び込むための、もう一つの条件について述べている。それは演出家と役者が互いに「NO」と言い合える関係、つまり「互いに他者である」ことだ。それは「最も素晴らしい偶然のための条件」であり、「共に変わってい」くための前提でもある。ここには本書のタイトルの由来の二つ目があるが、これなどは演出の倫理的条件とも読み替えられるし、そのまま治療論にもなっている。なぜなら、治療的な対話において最も重要なこともまた、「他者の他者性の尊重」であるからだ。
二巻本である本書の「2」には、浩瀚なブレッソン論が収められている。ここにも、「イタリア式本読み」に通ずるような偶然性の擁護があり、そればかりか「魂」の称揚がある。ブレッソンによれば、俳優の動きがあらゆる意図から離れて自動化した時、身体に「魂の窓」が開き、セリフは「これ以外にはあり得ない」ほどの水準で発声される、という。
映画というメディアの素晴らしさは、こうした「魂の窓」が開くような奇跡的瞬間を、ただちに繰り返し確認できる点にある。嘘だと思うならあなたのパソコンで、小津安二郎「東京物語」を再生してみると良い。映画終盤の原節子の演技。「人の魂から直に湧き出た」とまで濱口が評する、その決定的なシーンを見、声を聞いてみると良い。
小津と原が「互いに他者」でなければ、このような場面はありえなかった。演出は治療に似ている、などと陳腐な結論が言いたいわけではない。ここに至って濱口の映画論、演出論は、「人が人とかかわること」の根本条件にまで到達し得ているのだ。