書評
『カルパチアの城 ヴィルヘルム・シュトーリッツの秘密』(インスクリプト)
決定版と言える書物
『八十日間世界一周』『地底旅行』『海底二万里』といった、今でも読み継がれている作品の著者としてあまりにも有名なジュール・ヴェルヌに、<驚異の旅>という連作シリーズがある。一八六六年から刊行が始まり、死後出版されたものも含めれば、長篇だけで六十作を超えるというとてつもないスケールのこのシリーズは、当時のフランス読書界のみならず、後の時代のさまざまな国の人々にも、大きな刺激を与えてきた。しかし残念ながら、このシリーズは約半数が未訳のままで、わたしたちにはなかなか全貌をつかむ機会がなかった。現在刊行が進行中の、「ジュール・ヴェルヌ<驚異の旅>コレクション」は、こうした現状を変えようとする試みであり、初版時の挿画も完全収録し、詳細な注釈を付すなど、決定版と言える書物に仕上がっている。全五巻のうち、第三回配本として出たこの『カルパチアの城 ヴィルヘルム・シュトーリッツの秘密』は、中期を代表する作品の一つであり、トランシルヴァニアを舞台にしているところから、ブラム・ストーカーが『ドラキュラ』のヒントをそこから得たのではないかとしばしば言われている「カルパチアの城」と、死後出版された作品で、ヴェルヌがH・G・ウェルズの『透明人間』に対抗心を燃やしたと思われる「ヴィルヘルム・シュトーリッツの秘密」の二作をカップリングするという、取り合わせの妙が楽しめる一冊である。この幻想小説風の二作を続けて読むと見えてくるのは、小説の骨組みがよく似ていることだ。エキゾチックなロケーションの設定(「カルパチア」ではルーマニアのトランシルヴァニア、「ヴィルヘルム・シュトーリッツ」ではハンガリーの架空の町)、美女(歌姫ラ・スティラ、名家の令嬢ミラ)、その許婚者(いいなずけ)と恋敵という三角関係、美女(あるいはその亡骸(なきがら))の消失と奪還、怪奇現象(死んだはずの人間の歌声が聞こえる、そこに人間がいるはずなのに姿が見えない)、その合理的解決、マッド・サイエンティストの存在、と多くの類似点が挙げられる。それは、編集者エッツエルの求めに応じて、ヴェルヌがシリーズとして書き続けた小説群がパターン化していった、その現れでもあるだろう。ただ、そうした大衆小説的な物語の筋立てが用いられてはいるものの、そこには明らかに異様な熱の入れ方、奇妙なオブセッションが感じられる。善玉の主人公あるいは語り手よりも、その宿敵となる悪玉(カルパチアの城に立て籠もるゴルツ男爵、ミラを許婚者から奪おうとしたヴィルヘルム・シュトーリッツ)の方が、はるかに活(い)き活きと描かれているのがその証拠だ。そして、この二作とも、美女には読者の意表を突く運命が与えられていて、いわば未来のイヴが誕生しているところも、両作品を凡庸の域から救っている大きな点である。
ジュール・ヴェルヌは、<驚異の旅>連作で、地球上さらには宇宙のあらゆる場所、そして小説のさまざまなジャンルを網羅するという、壮大な構想を抱いていた。わたしたちはその構想の一端を、この「ジュール・ヴェルヌ<驚異の旅>コレクション」でのぞき見ることができる。ヴェルヌの小説を読むことで、小説そのものがスペクタクルつまりは見世物だった、ヴェルヌが執筆していた十九世紀後半から二十世紀初頭にかけての、興味尽きない時代へと旅をすることができる。そこには綿密に付けられた注釈というガイドブックも用意されている。このコレクションが五巻で終わってしまうのはあまりにも惜しい。
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