「独身者機械」の「唖然とするほどの並行関係」をあぶり出す「解釈」の徹底ぶり
かつて『独身者の機械』として邦訳(高山宏・森永徹訳、ありな書房、一九九一年)の出たミシェル・カルージュの同じ書物(一九七六年刊の増補改訂版)の新訳である。タイトルが『独身者機械』に変わったが、「の」を入れるか否かでさほどの違いがあるわけではない。ただ、新訳のタイトルのほうが「独身者」の形容詞性をはっきりさせ、もともとマルセル・デュシャンのものであった表現の全体的な統一性の印象を与えるということになるだろうか。旧訳と新訳の訳文の異同の細かな検討もできないわけではないが、異同は些細なものであり、両方とも総じて立派な翻訳であるといわなければならない。
ほぼ二十年ぶりに読み直したことになるが、それにしても著者の「解釈」の偏執狂的なまでの徹底ぶりにあらためて強い印象を受けた。「もつれにもつれた独身者機械のテーマ群」を示し、比較し、構造を抜き出すべく、著者は力フカの「変身」の毒虫に変わるグレゴール・ザムザのイメージとデュシャンの〈大ガラス〉のてっぺんの「あのもう一匹のおぞましい毒虫」とのあいだの「奇妙な一致」の直観から出発する。アンドレ・ブルトンの先駆的なデュシャン論「『花嫁』の灯台」を研究していたときに突如として得たというのだが、当のデュシャン自身は、「附録」として収められた一九五〇年の著者宛の手紙のなかで、カフカの「変身」はほんの数年前に読んだだけで、「流刑地にて」は読んだことがないし、少なくとも〈大ガラス〉についての著者の論述には「肯けない点」がある、と明言しているのだからおもしろい。もっとも、デュシャンは、「貴兄が鮮やかに立証された、明らかな並行関係にはただ驚くばかりでした」と付け加えることを忘れてはいない。
著者にとって、採り上げる作家たち自身の主観的意識あるいは意図はさほど問題ではないということになろうか。著者が「構造」あるいは「構造的な並行関係」と呼ぶところのものが問題なのであり、著者はそれを端的に「精神下の客観性の領域」にあるというのである。
こうして著者は、ルーセル、ジャリ、アポリネール、ヴェルヌ、ヴィリエ・ド・リラダン、イレレルランジェ、ビオイ=カサーレス、ロートレアモン、そしてこれらすべての原点たる位置を占めるとみなされるポーの作品に説き及ぶわけだが、ガラス、「製図屋」、書き込み、昆虫形態、眼科医といった物語要素に着目しつつ、それぞれの「独身者機械」の「唖然とするほどの並行関係」をあぶり出すにいたるのである。
個々の作品に即した煩瑣なまでの「解釈」ぶりについていくのは、正直かなりの努力を要する。とりわけ著者が位相幾何学だの集合論だのを持ち出してくるのにはいささか辟易とせざるをえないが、つまるところ本書の主題は、著者自身がいうように、「機械と人間の孤独とのあいだの距離ないし差異」、あるいは「相補いあう二つの人間的要素(男性と女性)の対になった機械的な孤独」にほかならない。
著者はこう書いている。「独身者機械のドラマは天涯孤独に生きる者のそれではなく、異性にどこまでも近づきつつ真に結びつくことのない者のドラマである。原因は貞操観念にあるのではなく、それとは真逆に、融点に至ることなく並行して荒れ狂う、二つのエロティックな情熱の葛藤にある」と。ここでいわれる「融点」を、ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」におけるあの「至高点」と比べることもできるかもしれない。してみれば著者のいう「独身者機械」とは、あらかじめ到達不可能なことを運命づけられた、「融点」ないし「至高点」への孤独なシュルレアリスム的活動の比喩とみなせなくもないわけである。
あるいはこうもいえるのではあるまいか。十九世紀末という時代を指示する特権的概念のひとつに、「ファム・ファタル」がある。男を破滅させる宿命の女は、また「感謝知らずの女」とも「生まない女」ともいわれる。もっぱら女性に対して用いられたこうした表現を、視点を替えて男性の側に差し向けるとすれば、「生ませない男」、「生ませられない男」ということになるだろう。いずれにせよ、生殖とは無縁なところで繰り広げられる不毛なエロティシズムの問題を、著者は「独身者機械」というまことに卓抜な表現によって新たに切り取ってみせたわけである。
この表現ないし概念の射程が優に現代にまで及ぶだろうことを、訳者の「解説」が十全に示唆してくれている。ヴェルヌの『カルパチアの城』においてガラス面に再生されるオペラ歌手のラ・スティラと、アクリル板に映し出される歌姫、初音ミクとの驚くべき類似性が、それを象徴する。