未知で奥深い世界に誘う「ブリコラージュ」
誰も行かないところに行って、誰も思いつかないことをする、辺境ノンフィクション作家の著者は、イラク奥地の湿地帯探検に出かけることを思い立つ。東京に暮らすイラク人から現地の言葉を習い、世界中の川を旅した環境保全の専門家、隊長こと山田高司氏を誘い、準備にも余念はない。現地では腕のいい舟大工を探し、伝統的な舟を作ってもらい、「名人の舟」をパスポート代わりに、悠々と湿地帯を巡る旅になるはずだったが、読者は、わりといつまでたっても「名人の舟に乗る話」を読むことはできない。イラク自体、渡航するのに危険が伴う場所であるだけでなく、秘境湿地帯を取材するには、文化や風習の違いも含め、それはいろいろな困難や珍事が伴う。
本書は、ティグリス川とユーフラテス川の合流点付近を舞台にしたノンフィクションだ。現在はイラクの東南、イランやクウェートにも近く、古代メソポタミア文明の生まれた場所である。旧約聖書に出てくる「エデンの園」ではないかと考えられているとも。なんと古代ロマンに満ちた場所であることか!
そしてそこは、広大な湿地帯なのだという。かつては日本の四国を上回るほどの面積の湿地帯が存在し、いまは、上流での灌漑・ダム事業などの影響で徳島県並みに縮小してしまったというが、いずれにしてもかなりな広さだ。
湿地帯は、2016年に世界遺産登録され、現地の言葉で「アフワール」と呼ばれる。古来、戦争に負けた者、迫害されたマイノリティ、山賊や犯罪者などが逃げ込む場所だったという。馬もラクダも戦車も象も入れない、迷宮のように水路が入り組み、方角さえわからなくなる湿地帯は、絶好の隠れ家だった。あたかも宋代の好漢たちが、湿地帯内の梁山泊に集った「水滸伝」のように(これがタイトルの由来である)。
何千年、何百年前の話ではなく、1990年代まで、サダム・フセインに反対する勢力は、この湿地帯に逃げて抵抗を続けた。本書には、それを実践していた反フセイン勢力のゲリラのリーダー、「湿地帯の王(アミール)」と呼ばれる男も出てくる。サダム・フセインは、かれらを掃討するため、文字通り、何千年の歴史ある湿地帯を干上がらせた。ティグリス川、ユーフラテス川に堰を築いて水の流れを止め、水のなくなった地に道路を走らせたのだ。しかし、フセイン政権が倒れた後、住民が堰を壊して湿地帯は半分ほど復元が進んだ。
そんな出来事があったかと思うと、紀元2世紀か3世紀に迫害から逃れて湿地帯に逃げ込み、以来ずっと教えを守っている古代宗教が存在する。マンダ教というもので、しょっちゅう洗礼をするのが特徴だ。「古代の香りを漂わせる」装束で水に浸かるかれらの姿を見て、ヨハネがイエスに洗礼を授けたのはこんな光景でもあったかと、著者は夢想する。
悠久の時をも、現代の混沌をも呑み込む湿地帯は融通無碍である。
湿地帯の奥には、古代からずっと同じ生活文化を守って、水牛を飼い、舟で移動しながら生きている、水上の民「マアダン」がいる。「マアダン」には差別的なニュアンスがあり、現在は「シュメール」などの言葉に置き換えられることもあるそうだが、著者はそれがもともとは、「水牛飼い」を表す言葉だと理解する。現代イラクからは遠いところでひっそり生きているような人々なのに、かれらだけが作る水牛乳の加工食品「ゲーマル」が、イラクの国民食になっているというのが驚き。「ゲーマル」作りのレポートは非常にそそられ、食べてみたくなる。地域限定の湿地帯グルメが国民食に変貌する過程が推理されるのも楽しい。
コロナで取材が停滞した時期に著者が出会う「マーシュアラブ布」は、湿地帯で生まれた独特の刺繡。その、イスラム文化から離れた、自由で個性的で色彩豊かな民芸品の産地や意匠を探し当てる旅や、50年近く前に廃れてしまった技術を蘇らせて、4000年前からあったアフワールの舟「タラーデ」を作る話なども、圧巻のエピソード。それぞれで1冊ずつの本になるのではないだろうか。
あらかじめ設計図を作らず、行き当たりばったり、ありあわせの材料でものを作っていく「ブリコラージュ」の手法で書かれた本書は、読者をまったく未知の、ものすごくカラフルで奥深い世界に連れて行く。そして、読み終わると、著者によって「水滸伝」的あだ名を進呈された登場人物たち(誰よりも湿地帯を愛し、想像を超えるホスピタリティと人脈で著者らを引き回すジャーシム宋江や、中学教師なのにとんでもなくつきあいのいい通訳兼参謀のアヤド呉用、ハンサムな歌う船頭アブー・ハイダルなど)の「好漢」ぶりが、しっかり胸に残る。湿地に適応してすいすい移動し、時間になるとおいしい餌を求めて、合図なしでも集まる賢い水牛たちもかわいい。
アフワールの未来は(政治状況や渇水などの条件も重なって)不透明だが、「現代最後のカオス」の生き生きとした姿が、これでもかと詰め込まれた記録文学になっている。