縦横無尽に「自己」と「他者」を考え直す
ここ数年、文学の読み解きに「ケア」という語と概念が使われることが増えた。ケアとは、病人の看護、高齢者の介護、子育て、家事労働、動物の世話など、ひとや時にはものの面倒を見ること全般、またはその相手の立場に寄り添い思いやることを指す。この言葉を一般読者にまで普及させた一人として、英文学者の小川公代を挙げなくてはならないだろう。イギリス十八世紀の医学史の研究という社会学の分野から英文学に転向した学者である。
アメリカの倫理学者・心理学者のキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』に深く影響を受けて執筆した『ケアの倫理とエンパワメント』を皮切りに『ケアする惑星』などの解説書を発表し、現代社会におけるケアの問題を論じつつ、ケアの観点から多岐にわたる文芸作品を読みなおす試みを続けている。
近代とは、個人の自律と自立と自由を重んじ前面に打ちだしてきた時代だ。つまり、個人の理想像はとにかく確立した「自」にある。自ら立つこと、自ら決めること。そうしたなかで女性の社会進出があり、新自由主義と資本主義メリトクラシー(能力成果主義)の台頭に伴い、家庭内ケア労働は価値の低いものとみなされてきた。ケア労働は無償の愛によるものという感覚の延長に、医療・福祉ケアラーの報酬の低さも設定されてきたという説もある。
社会で経済的、地位的な成功を収めた強者はケア労働から解放され、弱者がさらなる弱者を世話する図式が続いてきた。フェミニズムのなかでは、ケア労働というもの自体が、個人の自立とは逆行する依存的なものだと批判されることもあったという。
しかし『世界文学をケアで読み解く』で、著者はまず「『個』が他者から切り離されることだけが果たして『成熟』なのだろうか」という問いから始めている。
本書では多くの文学作品のみならず、映画、アニメ、ノンフィクション、論文などが縦横無尽に引用されるが、各論を貫く重要概念として、「ネガティヴ・ケイパビリティ」、「多孔的な自己」、「緩衝材に覆われた自己」、「横臥(おうが)者と直立人(病者と健康者)」といった用語を頭に入れておくといいと思う。
第二章「弱者の視点から見る」では、渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』の筋ジストロフィーを患った鹿野靖明と、映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の独裁者イモータン・ジョーが取りあげられる。どちらも身体障害を負っているが、前者の「『共生』を含んだ自立観」と、後者の「強者の仮面/ヨロイ」を被(かぶ)った強権支配が対比されるのだ。さらに、ジョーは彼の要塞のごとく他者の侵入を拒む「緩衝材に覆われた自己」の持ち主である一方、フュリオサたち女性の有能な助力者となる男性マックスは、他者の声を聴く、ひらかれた「多孔的な自己」をもつと分析される。
第三章「SF的想像力が生み出すサバイバルの物語」では、科学史家ダナ・ハラウェイが考察した近代社会における「自己」と「他者」の二項対立を検証する。自己には、こころ、文化、男性、能動的という言葉が、他者には、からだ、自然、女性、受動的といった言葉がついてまわるという。ボーヴォワールの「つまり女性は他者なのだ」という『第二の性』での言葉は有名だ。
小川はこの第三章の末尾で、「サイエンスフィクションは、視座をいったん『自己』から引きはがして外に向けていく力」「『他者』の重要性を言葉で表現する力を備えているといえないだろうか」と問いかける。
第四章「<有害な男らしさ(トキシック・マスキュリニティ)>に抗する文学を読む」では、大江健三郎の『万延元年のフットボール』も題材として挙げられている。主人公の男性が知的障害のある妹を言いくるめて性交におよび、妊娠させてしまう。妹は強制的に中絶と不妊手術をさせられた末に、自殺する。
この妹は近代西洋思想が信じてきたような「自律的な個」を持ち得ていたのだろうか。この問いは、今回の芥川賞受賞者であり重度身体障害をもつ市川沙央が投げかけた言葉と重なりあう。市川は障害者文化論の研究者・荒井裕樹との往復書簡「世界にとっての異物になってやりたい」(『文学界』8月号)で、「明晰な自己意志を持つ標準的な身体のみを社会に揃えることを目指しつづけ<中略>るというのならば、宗教や素朴な道徳の他に何をブレーキとして頼んだらいいのだろう」という懸念を表明した。
近代西洋思想に染まる人たちは、個の確立と自立を目指すあまり、自己責任論に足をすくわれがちだ。自他の定義と関わり合いを、私たちはいま考え直さなくてはいけないのではないか。
小川はしばしば「カイロス的時間」に言及する。これは一方向に進む「クロノス的時間」とは異なり、人間の内なる岸辺に寄せ返す不定形さをもつ時間だ。こうした波状こそが、他者に寄り添うケアという行為が本質的に孕む揺らぎであり、豊かな包摂性なのではないか。