解説

『肥満男子の身体表象: アウグスティヌスからベーブ・ルースまで』(法政大学出版局)

  • 2020/10/01
肥満男子の身体表象: アウグスティヌスからベーブ・ルースまで / サンダー・L. ギルマン
肥満男子の身体表象: アウグスティヌスからベーブ・ルースまで
  • 著者:サンダー・L. ギルマン
  • 翻訳:小川 公代,小澤 央
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(354ページ)
  • 発売日:2020-09-28
  • ISBN-10:4588011227
  • ISBN-13:978-4588011221
内容紹介:
兵士フォルスタッフから、肥満探偵、肥満の野球選手まで、文化、医学、法の領域において、いかにして肥満男子は表象されてきたのか。

肥満(オビーシティー)というスティグマを覆す

肥満とスティグマ


サンダー・L・ギルマンは、西洋におけるスティグマの表象を凝視し続けてきた医学史専門の歴史学者である。〈スティグマ〉という言葉の由来を辿れば、身体に「烙印」を押して、奴隷や犯罪者を特定するような時代まで遡る。転じて、物理的な烙印に限らず、ある特定の属性を持つ人に対して社会的な負のレッテルを貼り付けることを表す言葉としても用いられるようになった。ギルマンは、『病気と表象――狂気からエイズにいたる病のイメージ』(本橋哲也訳、一九八八)、『健康と病――差異のイメージ』(高山宏訳、一九九五)、『ユダヤ人の身体』(菅啓次郎訳、一九九七)、『フロイト・人種・ジェンダー』(鈴木淑美訳、一九九七)などの著者として知られる。『病気と表象』や『健康と病』では、「理性と非理性」や「美と醜」といった二分法を巧みに用い、その境界にある負のレッテルがいかに歴史的に決定づけられてきたか、その文化表象を「視ること」によって、スティグマ化された人々の声に傾聴する。

ギルマンの強みは、負の文化表象を「視る」ことで生み出される彼独自の解釈だけではない。その研究を下支えしてきたのはむしろ学際的研究が可能にする驚くべき視野の広さであろう。例えば、『病気と表象』では理性と非理性の境界にある「狂気」や「精神異常」の概念を、史学、法学、医学、社会学、文学、美学など複数の観点から議論を重ね、『健康と病』でも、美しいものは健康で、醜いものは病めるものという「文化幻想」が存在してきたことを、複雑に絡み合うイメージ群を解きほぐしながら暴いている。

いくつもの学問領域を跨ぐような方法論を採用するのは、専門化、細分化されてきた蛸壺的なアプローチではとうてい対処できない類の問題が社会のなかで噴出していることに危機意識を抱いていたからではないかと思わせる。『病気と表象』では、「狂気」の議論が精神医学、あるいは医学史の範疇で掴みきれるような概念でないことが示される。オスカー・ワイルドによる『サロメ』の狂気表象、さらにはリヒャルト・シュトラウスによるオペラ版『サロメ』における「性倒錯」のイメージが論じられているが、ここで重要なのは、作者のワイルドがアルフレッド・ダグラス卿との卑猥行為を咎められ、投獄されたおそらく歴史上最も性的マイノリティであるということだ。『サロメ』のオペラ版の分析において、精神異常とも分類されうる「性倒錯」がユダヤ人、および女性性と結びつけられ、それによってギルマンはある「文化幻想」を露呈して見せた。

これまで分析対象とされてきたのは、絵画、写真、ポスターのなかに浮かび上がる「狂気」や「美醜」といった抽象概念だけではない。そこにはつねに特定の「身体」が介在している。本書が扱う主たる概念は勿論「肥満(obesity/fat)」であるが、実在する人間、あるいは虚構(フィクション)に表象される「身体」のふくよかな腹部(ガット)や脂肪といった物質性(マテリアリティ)も当然議論の対象となる。異なる時代の医学言説を参照しながら、様々なメディア――聖書、小説、自伝、詩、映画、絵画など――に表象されてきた肥満男子(ファット・ボーイズ)の身体的特徴、内蔵や血管、神経組織や脳といった身体部位にまで分け入って緻密な分析を行い、いかなるスティグマが浮かび上がるかを明らかにしている。

つまり、虚構(フィクション)の肥満男子(ファット・ボーイズ)と実在する肥満男子(ファット・ボーイズ)の生き様が錯綜しながら、肥満をめぐる文化的、道徳的意味が生成されてきたことを明快に論じているのである。原題も、Fat Boys――A Slim Bookという軽妙でコミカルな響きだが、訳書のタイトルに「身体表象」という言葉を挿入したのも、ギルマンの「身体」と「表象」への徹底した拘りを反映してのことである。また、読者にも分かりやすくイメージできるように、副題は「アウグスティヌスからベーブ・ルースまで」

 

肥満男子(ファット・ボーイズ)と文化的序列


本書は、西洋の初期医学文化から今日に至るまで、肥満(ファット)が病理的なカテゴリーとして認識されてきたこと、また肥満男子(ファット・ボーイズ)が文化的序列関係においてしばしば下位におかれてきたことに注目している。そして、肥満男子(ファット・ボーイズ)の表象がこのような負性を帯びるようになった文化的背景を詳らかにしながらも、そのことだけに終始するのではなく、肥満(ファット)という記号がどのように性的、文化的、人種的差異と複雑に絡み合う文化表象となって、結果的に人の心をも動かすような創造性を与えてきたかまでも丁寧に論じている。

ギルマンは、これまでも「理性と非理性」、あるいは「美と醜」という系列に注目してきたが、肥満男子(ファット・ボーイズ)の身体表象の分析にも同様のカテゴリーを用いている。おそらくその理由は、西洋文化において「非理性」や「醜さ」というカテゴリーが周縁化されてきたからだ。本書でも、西洋人が非西洋人に遭遇する一七世紀以降の文献において「理性」的主体に西洋の白人男性が多いことが指摘されているが、それは植民地主義的な言説(ディスコース)の影響の大きさを物語っている。このような言説においては、植民地で統治される非西洋人、あるいはさまざまな文脈で「他者」と見なされてきたユダヤ人を含む周縁化される人々は、理性的な人間の範疇に入らない。

第二章にも言及されるジェイムズ・クック船長と航海を共にしたゲオルク・フォルスターの回想録に、非西洋人としては例外的な肥満男性が紹介され、その食への欲望はやはり「非理性」と結びつけられる。文明がしばしば飽食と結びつけられてきた背景を考えると、肥満になることが「不可能」と考えられていたタヒチで、「怠惰」で「無気力」な太鼓腹の男性を目撃したとフォルスターが綴っている点は興味深い。

本書でも取り上げられたミシェル・フーコーの『快楽の活用』(一九八四)で論じられている通り、西洋では快楽と理性(分別)の間につねに対照性があった。「快楽の実践における、分別(ロゴス)との関係は、紀元前四世紀のギリシア哲学により記述されている。(…)節制が前提として含むのは、分別(ロゴス)は人間存在のなかで最高の力という地位に置かれ、欲望を服従せしめることができ、行動を規制する力をもつ、という点である。不節制の人の場合には、欲望の勢力が最高の地位を奪いとって絶対的な力をふるうが、反対に、「節制をわきまえた人」では、人間存在の構造に則して命令し、指図するのは理性である」(第四章から)。ギルマンも、欲望を規制する力、あるいは節制をわきまえた人間の条件は「理性」であるというフーコー的な言説論を踏まえながら、それがいかに肥満の身体表象と呼応しているかを緻密に論じている。

もう一点、ギルマンが明らかにしようとするのは、社会科学で長らくフェミニズム、あるいは女性の問題として論じられてきた肥満の文化表象は、実は男性にとっても重要であるということだ。本書で繰り返し強調されるのは肥満男子(ファット・ボーイズ)が「女々しい」あるいは「女性化」され表象されてきたことである。生物学的な「女性」の問題としての肥満の身体ではなく、スティグマ化される肥満男子(ファット・ボーイズ)の身体が議論の俎上に上げられると、生物学的には「男性」に属するがゆえに非男性化されることの不安や苦悩が見えてくるのである。

虚実混交した肥満男子(ファット・ボーイ)表象に注目している点も本書の特徴である。食への飽くなき欲望を体現するのは、実在する人物では、古代の神学者アウグスティヌス、ヴェネツィアのアルヴィーゼ(ルイジ)・コルナロ、イギリスの巨漢ダニエル・ランバート、野球選手のベーブ・ルースらである。フィクションの肥満男子(ファット・ボーイズ)として分析対象となるのは、シェイクスピアのフォルスタッフ、セルバンテスの『ドン・キホーテ』(一六〇五)のサンチョ・パンサ、そして彼らの性質を継承する小説や映画の登場人物たちである。ギルマンによれば、彼らの肉体は理性で制御されたギリシアの競技選手(アスリート)たちの理想的な男性像からは遠くかけ離れている。コルナロは、四〇年間飽食や快楽にまかせた不節制の生活を送った一人だが、晩年は肉欲を捨て、節度を保つ理性と共に生きた人生を『長寿法』(一五五八)でふり返っている。

 

理性と快楽のあいだ


「普通」を規定するのは理性/分別ある(リーズナブル)人間であるという言説が支配的な社会でも、そもそもそのような人間は存在するのかという問いも投げかけられている。ギルマンは、分別ある「通常人(リーズナブル・マン)」という法学用語の援用によって、その虚構性を指摘する。コモン・ロー(判例法)において規定される「普通」は、「男」と「理性」が大前提となるが、この通常人とは、あくまで裁判官やコメンテーターによる多彩な描写や脚色によって構築される人格(キャラクター)にすぎない。そして、その通常人(リーズナブル・マン)の身体は太っていてはならないのである。

ただし、このような「理性と非理性」の二分法が最後まで貫かれるというわけではなく、歴史資料などの丹念な分析や小説などの独創的な解釈によって文化的序列に揺さぶりをかけている。これこそが本書の魅力といってもいいだろう。例えば、『ドン・キホーテ』のサンチョ・パンサは「大きな腹部に、背丈が低く、長いすね」の持ち主であり、コルナロのように、節制する生活に切り替えることはない。にもかかわらず、最後まで生き延び、繁栄する。コルナロのアダプテーションともいえるサンチョ・パンサは新しい生を受け、食餌療法に縛られない天真爛漫な性格を付与されるのである。

同様に、一九世紀末のジュゼッペ・ヴェルディによるオペラ『ファルスタッフ』(一八九三)は、シェイクスピアのフォルスタッフの再創造といえよう。ルネサンス期から一九世紀までの様々なオペラに登場するフォルスタッフは「喜劇的バス」で歌われていたが、ヴェルディのフォルスタッフの声はバリトン(バスとテノールの中間)に変えられ、その身体性を孕む音楽において人物像に多義的な意味が生み出された。ファルスタッフの声は「老いた男の腐敗してゆく無力な身体における病気」に対する不安を示すという解釈がなされている。

ギルマンが注目したのは、サンチョ・パンサやフォルスタッフのような主役級の太っちょキャラクターだけではない。古典文学でも、一般読者にはあまり知られていない個性的な脇役たちが次々と紹介され、その体型や性格などが分析されていく。ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディー』(一七五九~一七六七)に登場するずんぐりしたスロップ医師はサンチョ・パンサの系譜、また、チャールズ・ディケンズの『ピックウィック・ペーパーズ』(一八三六〜一八三七)に登場するウォードル氏の肥満男子(ファット・ボーイ)ジョーはフォルスタッフの系譜に連なる。シャーロック・ホームズの巨大で動きに乏しい兄マイクロフトの分析もある。「マイクロフト・ホームズは、シャーロックよりかなり大柄で、恰幅もよかった。体は肥満していたが、大きい顔の中に、弟に特有の、あの鋭い顔つきを思わせるものがあった。」

興味深いのは、虚構の登場人物が後世の小説に再創造されたキャラクターとして蘇るだけでなく、実在した肥満男子(ファット・ボーイズ)が後世の小説家のインスピレーションにもなることである。イギリスの巨漢ランバートは肥満男の典型として知れ渡り、ウィリアム・サッカレーが『虚栄の市』(一八四七~一八四八年)に登場する裕福な独身男性ジョゼフ(ジョス)・セドリという太っちょのキャラクターを着想するきっかけとなった。

また、医師が肥満男性の食餌療法の手助けをして、その経過が自伝として記録されたケースもある。中流階級の葬儀屋兼棺職人ウィリアム・バンティングは、『市民に宛てた、肥満についての書簡』(一八六三年)のなかで、自身の肥満をどのように克服したかを書いたが、一九世紀半ばには、医科学の領域では実証主義が勢力を強めており、食事の助言をしたのは食の科学に傾倒し始めた医師たちであった。クロード・ベルナールやウィリアム・ハーヴィーは、単に摂取する食事の量を禁欲的に減らすのではなく、でん粉質や糖質を大幅に減らすことが減量につながることを指摘している。

自伝を書いた野球選手といえば恰幅のいいベーブ・ルースが思い浮かぶだろう。彼が一九二八年に著した自伝では、咽頭癌に罹った経緯や、それが放縦とそれによる肥満/脂肪(ファット)の結果であったことの悔恨が綴られている。その自伝のアダプテーションともいえる映画『ベーブ・ルース物語』(一九四八)や『夢を生きた男――ザ・ベーブ』(一九九二年)の脚色によってベーブ・ルースがフィクション化され、彼の肥満、あるいは巨漢がいかに解釈されたかを明らかにしている。

 

肥満と女性化された(フェミナイズド)感受性


ここまで見てきたように、本書は理性と欲望の葛藤という言説を支える中心概念として肥満男子(ファット・ボーイズ)が紹介されているという印象もある。確かに、ギルマンは、肥満と欲望の分かち難い結びつきが時代を越えていかに人口に膾炙したかという歴史の連続性に注視しているが、忘れてはならないのは、彼が医学史の専門家であるということだ。本書では、「欲望」や「身体」をめぐる医学史の分水嶺も意識されている。例えば、キリスト教の文脈における「肉欲の罪」からの救済が、次第に「肉体改善」という名の下で行われる食餌療法の科学に取って代わられていったという変化も見落とさない。

欲望をもつことの罪深さ、あるいは性に関する不安というのは、キリスト教の中心思想である。前近代からフロイトを含む現代思想に至るまで、理性と欲望の葛藤は重要なテーゼであり続けた。アウグスティヌスは、肉欲を制御する必要性と魂の堕落した性質について説くパウロを繰り返し引用した。他方、一九世紀のイマニュエル・カントは、いかに理性が飲み食いに対する欲望を制御できるかを自らの経験を踏まえて綴っている。カントによれば、老齢の男たちは液体をもっと飲みたいという渇望に突き動かされるが、それは理性の力によって制御できるのだと主張する。本書で、カントの宗教観が論じられるわけではないが、啓示宗教と完全に合致しない彼の理性宗教が浮き彫りになるのも面白い展開である。

この転換点は、神経医学がヨーロッパに広がり始めた一八世紀から一九世紀の間に訪れた。本書では、これについて肥満という身体との論理的繋がりが説明されている。エディンバラ大学で医学を専攻し、著名『イギリス病』(一七三三)を書いたジョージ・チェイニー(一六七二~一七四三)は神経医学の先駆者的な存在である。アウグスティヌスやイギリス作家ダニエル・デフォーは肉欲の罪を犯してはならないと説いたが、チェイニーの世界においては、食への渇望は神に背く罪というよりむしろ肉体の健康に背く罪であった。肥満に苦しんだチェイニー自身が実践した食餌療法は、肉体改善という個人の宗教となり、「魂を治療(キュア)する方法としての食餌療法の科学」になった。

ギルマンは、世俗化してゆく肥満の身体表象を西洋の白人男性に限定しない。先述したタヒチの肥満男性はフォルスターによって「文明化された環境にいる寄生的な特権階級の人間のように、快楽を享受する個人」に喩えられていたと論じている。つまり、文明の肥満と未開の痩せ型の身体表象が西洋と非西洋に単純化される二項対立をも問い直しているのだ。

チェイニー自身はといえば、このような文明病を「イギリス病」と名づけていることからも分かるように、西洋の白人男性の肥満を前提にしている。しかし、チェイニーの最も重要な功績は「怠惰」という概念を脱構築したことであろう。そのふくよかな肉体の原因は物理的な「怠惰」なのであって、必ずしも知性や精神の「怠惰」を意味しない。むしろ、肥満になりやすい性質の人間の知性は――医師であるチェイニー自身も含め――神経器官を目まぐるしく駆け巡っているのである。「イギリス病」とは知的階級が最も罹りやすい病であり、この新しい理論によって、知性ある人間が痩せ型であるという社会通念が次第に矛盾を生じ始める。

チェイニーは、この病を文明病として捉えることによって、療養のためバース地方を訪れる富裕層の人々、あるいは書斎にこもって研究や執筆に従事する知識人の多くは神経の病を患っていると診断し、医学的に解明しようとした。チェイニーは、人間の導管や血管などの液体の流れが滞ることが病の原因であることを、水道のパイプを流れる水に喩えることで説明している。ニュートンの原理や数学的知識を用い、人間の体を「液圧の機械(hydraulic machine)」とみなすアーチボルド・ピトケアンの医学を学んでいたことも、まさに転換点となる所以である。

しかし、チェイニーの神経医学が文化的に最も重要なのはジェンダーのコンテクストにおいてであろう。クラーク・ロウラーによれば、チェイニーが『イギリス病』で浮かび上がらせたメランコリーやヒポコンドリアのイメージによって女性化された(フェミナイズド)感受性は、ヨーロッパや北米の人々の想像力に強烈な印象を残した。[1] 神経と女性の感受性をテーマとした文化、文学研究は一九九〇年代以降、盛んに行われてきた。ジョン・ミュランによるSentiment and Sociability (一九九〇)[2]やG.J.バーカー・ベンフィールドによるThe Culture of Sensibility(一九九二)[3]などにおいては、一八世紀の医学界と文壇との影響関係の分析を通して、当時どれほど身体の感受性が脚光を浴びていたか論じられている。キャサリン・ビンハマーによるThe Seduction Narrative in Britain, 1747–1800(二〇〇九)も女性の感受性と誘惑をテーマにした研究書である。[4]

ギルマンが選んだ肥満男子(ファット・ボーイズ)が登場する一八世紀小説『トリストラム・シャンディー』や『ジョゼフ・アンドルーズ』などが出版されたちょうどその頃、ヒポコンドリアや鬱病(メランコリー)がテーマになる感受性文学が大流行していたことは、すでにミュランやベンフィールドが指摘している通りである。繊細な神経(acute sensibility)は典型的に女性に見られる性質とされていたが、その一例としてよく挙げられるのが、サミュエル・リチャードソンによる『クラリッサ』(一七四七~一七四八)のヒロインの症状である。悪漢ラヴレイスに監禁されてから彼女に生じる鬱病(メランコリー)は女性特有の病として認識されていた。物語の最後で自死してしまうクラリッサの症状は、ルネッサンス期のメランコリーの伝統とプロテスタント的な死、そしてチェイニーの新しい感受性言説によって説明できるとロウラーは述べている(Lawlor 106)。

興味深いことに、知的な職業に就いた男性の不健康さが引き起こす神経系の病ヒポコンドリアも同じように精神の弱体化をもたらす。作者のリチャードソン自身もその症状に苦しんだ一人である。実は彼はチェイニーとも親交が深かったので、手紙を通して健康上の相談に乗ってもらっていた。チェイニーがヒポコンドリアの症状として挙げていた、めまい、発作、恐怖心や混乱が、リチャードソン自身の症状と一致していることを手紙で伝えている。もう一つの特徴として、些細なことに過敏になるというのがあり、感情的になったり、涙もろくなったりという症状も挙げられる。

この医学的な症状が文学に最もよく表れているのが、感受性小説の「感情の人」と呼ばれる男たちである。ヘンリー・マッケンジーが書いた『感情の人』(一七七一年)のハーレーや、ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』(一七六一年)に登場するサン=プルーなどは、当時の基準でいえば神経系の病理と見做されるだろう。それまでの理想的な男性像が精悍で意志の固い人間だとすれば、感情に流されるハーレーやサン=プルーは軟弱タイプの新しい男性像ということになる。ジェイン・オースティンの『分別と多感』(一八一一)に登場するマリアンはいわば女性版「感情の人」である。つまり、繊細な神経の持ち主はクラリッサや涙もろいオースティンのヒロインたちだけではないということだ。

このように、一八世紀に「理性」よりも「感受性(非理性)」の価値が高まった背景には、医学言説において神経医学が中心的な役割を担うようになったことがある。神経それ自体に「感じる力(sensibility)」が備わっており、それらが身体内部において物理的に共振(ヴァイブレート)することで、感覚原理(sentient principle)を形成すると考えられるようになった。これにより、精神が必ずしも身体を俯瞰して操作する主体(エイジェント)として機能しない可能性が浮上した。

この時代背景を踏まえると、感受性が基盤となる知性はとりわけ肥満男子(ファット・ボーイズ)にとって二律背反の要素を多分に含んでいたことになる。知的階級の肥満男性は、チェイニーやリチャードソン以外にも、本書では英語辞典の著者として有名なサミュエル・ジョンソン(一七〇九~一七八四)が取り上げられている。このような一八世紀の知識人たちにとって肥満(ファット)は感受性の知というイメージだけでなく、不活発である不健康さが引き起こすヒポコンドリア――つまり男らしさの欠如――の不安もまとわりついていた。ギルマンの議論は、つねにジェンダー化される身体や性質を鋭く射抜いている。

その証左ともいえるのが、スターンの『トリストラム・シャンディー』と肥満(ファット)の議論だろう。この小説では、病、死、男性の性機能障害が頻繁に言及されるのだが、同時にこれらの障壁はスターンにとって、言葉や風刺で果敢に挑むものでもあった――彼自身も結核を患いながらこの小説を書いていた。スターンが表象する肥満の身体も同様の両義性を孕むものとして解釈できるとギルマンは言いたいのだろう。肥満を病理として捉えたとき、その肉体の状態がいかに精神に影響を及ぼすかという言説だけでなく、より創造的に、あるいは肯定的に描かれた(ときに笑いを誘う)肥満男子(ファット・ボーイズ)を前景化しようという気概も本書から伝わってくる。

 

エディンバラ大学の神経医学から直感(ガット・フィーリング)まで


ギルマンが明らかにする肥満(ファット)の両義性は、そのまま脱デカルトの議論にも繋がる。「精神/理性」と「身体/非理性」は長らく二項対立の概念として理解されていた。しかし、神経医学の進歩により、次第にこの二つの領域をつなぐ導管としての「神経」が顕在化し、デカルト的二元論が根本から疑問に付されることとなった。その背景にあるのが、医学教育、医療実践を広める拠点としてのエディンバラ大学の影響力である。

チェイニーが学んだ一八世紀のエディンバラ大学といえば、スコットランド啓蒙思想やオランダ医学の神経医学を取り入れた研究、教育で知られている。オランダの医師ヘルマン・ブールハーフェのもとで学んだスイスの医師アルブレヒト・フォン・ハラー(一七〇八~一七七七)の神経器官の理論は、当時最先端の医学理論として医学者たちの注目を集めただけでなく、神学や哲学の分野にまで多大な影響を及ぼした。フォン・ハラーは、神経の反応を、筋肉のように刺激を受けて収縮する「被刺激性(irritability)」の器官と感覚を伝える「感覚性(sensibility)」の器官に分類することによって、神経と身体の関係性が想像しやすくなる語彙を提供したといえる。

フォン・ハラーやチェイニーの医学は、エディンバラ大学で学んだロバート・ウィット(一七一四~一七六六)やエラズマス・ダーウィン(一七三一~一八〇二)――チャールズ・ダーウィンの祖父――といった神経医学の専門家たちに継承された。ウィットはObservations on the Nature, Causes, and Cure of those Disroders which have been commonly call’d Nervous, Hypochondriac, or Hysteric (一七六四)という著書において、身体の無意識の領域における活動や神経が身体内部で果たす役割について詳細に述べている。[5]

また解剖学の目覚ましい進歩や観相学などの流行により、身体の動きと神経が連動することが可視化されるようにもなる。その結果、人の精神/理性を凌駕するほどの、「直感(ガット・フィーリング)」や情操の重要性が注目されるようになった。つまり、身体がある種の「知性」を帯び始めるのも一八世紀以降である。それによって、理性の働きが、身体、あるいはその一部である繊維や神経組織に委ねられるようなナラティブが生まれるのである。一八世紀に身体内部で生じている感情の動きに光が当てられる感受性文学が広く読まれるようになったのも、この神経医学を抜きには語ることはできない。

ギルマンは、脂肪は思考するのかという問いを炙り出す議論を展開する。例えば、フォン・ハラーの理論をさらに発展させた一九世紀のロベルト・レマーク(一八一五~一八六五)による唯物論的な身体の捉え方に注目している。レマークは、髄鞘(ミエリン)のない繊維(≒被刺激性の器官)と髄鞘(ミエリン)のある繊維(≒感覚性の器官)として特定されるものがあると論証することで、あらゆる類の宗教、または物質的身体から独立した魂の超越性や霊性を否定した。

パウル・フレクシッヒ(一八四七~一九二七)は、いかにしてこの髄鞘(ミエリン)が発達するかを一九〇〇年に理論化したが、髄鞘(ミエリン)が原因であるとされた「知能の向上」には、判断能力も含まれていた。精神分析の祖でもあるジークムント・フロイト(一八五六~一九三九)はこの点をもっと明確にしたといえる。フロイトの「無意識」をめぐる理論は「神経の能力」への信頼に依拠しており、つまりその判断は身体の記憶を通して起こると考えられた。

すなわちギルマンが分水嶺として捉える一八世紀から一九世紀は、ちょうど「身体を介して思考する」モデルが確立する時代であった。脳と神経系の関係性が確立し、「魂(ソウル)」の一部だった「思考(ソウト)」の概念は、身体化する。このような医学言説の基盤となったのは、チェイニーのイギリス病だけではない。ギルマンは、一九世紀初頭のフランツ・ヨーゼフ・ガルやヨハン・シュプルツハイムの骨相学やヨハネス・ミュラーなどの科学者による唯物論の影響についても触れている。

本書で繰り返し用いられる「直感(ガット・フィーリング)」という言葉は、一九世紀の肥満男子(ファット・ボーイズ)の身体表象の解釈にも中心的な役割を担っている。いかに身体が思考するのかという問題が一九世紀を通じて表象化されるようになるからだ。肥満の身体を持つ者は愚鈍である、あるいは非理性的であるというスティグマはここにきて、ついに積極的に問い直されるのである。

これに関連して最も興味深いケース・スタディーはヴィルヘルム・ラーべによる『シュトプクーヘン』(一八九一年)という探偵小説(英題は『タビー・シャオマン』)であろう。事件の謎を解明する過程で肥満探偵タビーが誇る「腹部で認識する真実」(ガット・トゥルース)は、身体の中に見出すことができるものである。膨れて見える彼の身体は、じつは感情的に真実を探求するための媒体なのだ。

 

ここまで見てきたように、本書の肥満男子(ファット・ボーイズ)の身体表象の研究が依拠する資料には、古代ギリシアから現在までの肥満に関する医学文献だけでなく、ハイ・カルチャーに属する文学作品や絵画、ポピュラー・カルチャーに属する映画や風刺画なども含まれる。ギルマンがはしがきでも述べているように、本書が扱っているのは「単なる」表象ではない。文化表象が男性の身体に及ぼす影響は甚大である。彼らが自分の身体をどのように解釈し、それに基づいて「改変」するのかという議論が十分なされている。肥満男子(ファット・ボーイズ)は、食欲のみならず、性欲過剰とも特徴づけられてきた。しかし、それと矛盾する無性(アセクシュアル)という解釈もある。そういう様々な理解から出発し、自らの肉体改造に踏み切った肥満男子(ファット・ボーイズ)の物語の数々が本書にはぎっしり詰まっている。共訳者の小澤央さんと訳し終えて、表象は現実をも変容させる力があるというのがギルマンのメッセージだったのではないかとその意義を噛みしめているところである。本書が、〈身体〉と〈表象〉の関係性を改めて考える契機を提供できるものと信じている。
 

[1] Clark Lawlor, ‘“Long Grief, dark Melancholy, hopeless natural Love”: Clarissa, Cheyne and Narratives of Body and Soul”, Gesnerus 63 (2006): 103–112.
[2] John Mullan, Sentiment and Sociability: The Language of Feeling in the Eighteenth Century, Oxford: Clarendon Press, 1990.
[3] G.J.Barker-Benfiedl, The Culture of Sensibility: Sex and Society Eighteenth-Century Britain, Chicago and London: Chicago UP, 1992.
[4] Katherine Binhammer, The Seduction Narrative in Britain, 1747–1800, Cambridge: Cambridge UP, 2009.
[5] Robert Whytt, Observations on the Nature, Causes, and Cure of those Disorders which have been Commonly called Nervous, Hypochondriac, or Hysteric, Second Edition. Edinburgh, 1765.
肥満男子の身体表象: アウグスティヌスからベーブ・ルースまで / サンダー・L. ギルマン
肥満男子の身体表象: アウグスティヌスからベーブ・ルースまで
  • 著者:サンダー・L. ギルマン
  • 翻訳:小川 公代,小澤 央
  • 出版社:法政大学出版局
  • 装丁:単行本(354ページ)
  • 発売日:2020-09-28
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