幾千年を超え、詩人の交感が聞こえる
興奮が止まらない。『楽しみと日々 壺中天書架記』は読むこと、書くこと、訳すこと、つまりは生きることをめぐる八六七ページの大著だ。プルースト研究者であり、『失われた時を求めて』の翻訳者としても知られる著者だが、高遠弘美の書くものは韻文であれ散文であれ、エセーであれ評論であれ翻訳であれ、すべてが詩である。良い翻訳者には詩人の素質が必要というのは特段論を俟(ま)たないと思うが、そもそも詩作とは世界を翻訳することなのだから、詩人のなかに良き翻訳者がいることは必然と言えるだろう。
今年二月に刊行された高遠訳『トゥーサン版 ルバイヤート』の熟成と清冽さを兼ね備えた新訳には、文字通りふるえたものだ。その翻訳過程を詳(つまび)らかにしたのが、『楽しみと日々』中の「『トゥーサン版 ルバイヤート』をめぐって」などの篇である。この翻訳で高遠が底本とした仏語訳が画期的なのは、一つに、ルバイヤート(四行詩)の韻文を散文に翻訳している点だ。高遠訳もそれを踏襲している。
ボードレールの「秋の歌」の訳詩にもその呼吸は見出せる。たとえば、吉田健一の韻文訳「秋の歌」の出だしは「須臾(しゅゆ)にして我等は入る、冷さと闇に」であり、「もうすぐ僕らは沈むだろう、冷たき闇の奥底に」が高遠訳である。吉田訳について著者は「(吉田にしては)めずらしく堅苦しくて、生硬さが残ったまま」だと首を傾(かし)げる。
雅やかで流麗な名訳然とした韻文訳と、伸びやかに拡がりゆく散文訳。後者の高遠訳はさる翻訳理論家の「完成したテクストのなかで依然として生成途上にある地帯」を貫くのが翻訳の極意だという言の鮮やかな体現と言える。
詩人=翻訳者であることが実感される箇所は本書中にいくらでもあるが、「幸福なる少数者のために――矢野峰人讃」(矢野の『ルバイヤート集成』への解説)という篇の「訳詩はかくして作詩に通じ、作詩は訳詩に重なりあう」という一文はそれを端的に表している。さらに、矢野の『世界名詩選』序文からこのようなくだりが引用される。「本来、訳詩は、訳者が原詩を愛するのあまり、自分の言葉に直さずにはをられないといふ程の衝動から生れるべきもの」だと。
翻訳とは、いわば模倣と再現の営みであり、途轍もない作品に魅入られてその惑溺に身をさらした者はだれしも、『ドン・キホーテ』に傾倒するあまり自分で『ドン・キホーテ』を書いてしまうピエール・メナールになる素質をもっているのだろう。
これを高遠自身の言葉に言い換えれば、「名詩はかくして原詩への『称賛と同情』を、母の言葉のリズムと響きのなかで織りなしてゆく訳者の、深い言葉への愛と、撓(たわ)むことなき精神の力によって、まったく異なる風土で花開き、新たな命、新たな読者を得ることにもなる」のである。
読み、書き、訳し、生きることの日々の楽しみが各頁の端々まで横溢している。本書の題名はプルーストの『楽しみと日々』にちなんでいるが、『楽しみと日々』は古代ギリシアの詩人ヘシオドスが人生訓や倫理観を詠った『仕事と日々』( Ἔργα καὶ Ἡμέραι)をもじったものだろう。何千年の時を超えた詩人たちの交感の声が聞こえる。