書評

『クララとお日さま』(早川書房)

  • 2021/06/05
クララとお日さま / カズオ・イシグロ
クララとお日さま
  • 著者:カズオ・イシグロ
  • 翻訳:土屋 政雄
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2021-03-02
  • ISBN-10:4152100060
  • ISBN-13:978-4152100061
内容紹介:
人工知能を搭載したロボットのクララは、病弱な少女ジョジーと出会い、やがて二人は友情を育んでゆく。愛とは、知性とは、家族とは? 生きることの意味を問う感動作。

シニシズムに抗すること――「お日さま」の隠された意味

宗教、人種、階級、ジェンダーなどによって分断される社会では、他者への、あるいは価値観の異なる人々に対する不寛容が問題になっている。『クララとお日さま』の刊行に際して行われたインタビューで、カズオ・イシグロは社会の分断について、「それでも、私たちはなんとかしてコミュニケーションの手段を考えないといけない」と蔓延するシニシズムに抗する重要性を訴え、他方で感情に流されすぎることにも警戒している。[1] イシグロの『わたしを離さないで』に描かれる他者を例として挙げると、クローンである語り手キャシーも彼女の仲間も、いずれは臓器をすべて人間に提供し、生を終えなければならない。このクローンの運命は、人間にもいやおうなく訪れる死の比喩であるとイシグロはいう。持つ者も持たざる者も避けられない「死」を読者に感じさせながら、社会に存在する“差異”よりも、人間のこの“普遍性”をさまざまな語りによって前景化させてきた。『忘れられた巨人』以来六年ぶりに手がけた本作でも、他者への不寛容を乗り越えようとする力強い語りは健在である。

このように読者の感情に直接作用する比喩を多用してきたイシグロだが、[2] 感情操作自体の問題については、本作ではきわめて繊細なアプローチがなされている。 その一つの証左として、語り手に選ばれた「クララ」は、人間でもクローンでもなく、非生物的な機械、人工知能を搭載したロボットであることが挙げられる。彼女は周りの人間の言動だけでなく、彼らの感情の起伏を注意深く観察するようプログラムされている。というのも、彼女は人間の子供の成長を促すために開発された人工親友(AF)だからだ。さらには、神経器官をもたないにもかかわらず、「感情」と呼べる意識のパターン、つまり「悲しい」などの主観が与えられているのだ。

クララは型落ちのAFとして店頭に並ベられるが、最新型と比べても引けを取らない。むしろ他のどのAFよりも秀でているという店長の言葉どおり、クララは「精緻な理解力」を備えている。とりわけ彼女の観察眼は優れていて、たとえば長いこと生き別れになっていた老齢の男女が道端で再会を果たした瞬間に気づいている。そんなクララに店長は――まるで親か教師のように――人間は「幸せと同時に痛みを感じる」ことがあると教えている。

クララに一目で魅了されたジョジーという少女は母親と店に何度かやってきたが、なかなか購入にはいたらない。クララの方でもジョジーは特別な存在になっていて、他の子供がクララに関心を示したときでさえ、「ほほ笑むこともし」なかった。ようやくジョジーの自宅に連れて来られたクララは親友のように大切にされるが、その一方で、差別や暴力という人間の残酷さに直面する。また、病弱なジョジーからはいつも「親友」として必要とされるわけではない。あるとき、クララを「空中に投げ」るとほのめかし、差別的な感情を煽る友人たちにジョジーはなびいてしまう。リックという少年がこの窮地からクララを救えたのは、彼が同調圧力に屈することがなかったからだ。

ジョジーのAFとしての役目が終わったら、クララは廃品置き場行きになる。それなのになぜ店長はクララの感性を育てようとするのか。『わたしを離さないで』でもヘールシャムという施設に送られたクローンの子供たちは人間と同じ教育を受け、自分たちがいずれ臓器を提供する目的を果たせば命が奪われることも知らない。いつかサッカー選手になれると信じこむ子供もいる。いずれ不可避の死が訪れ、すべてが無に帰せられるにもかかわらず、感性や技術を磨こうとする点で、人間も同じである。店長もまた、クララたちAFを待ち受ける社会の闇――虐待やネグレクト――について語らない代わりに、愛や友情といった善なる感情を鍛え上げていく。

「感情」は危うさを孕みつつも、決して打ち捨てられるものではない。キャシーを含め、これまでのイシグロの語り手の多くは、執事や外国人など、社会では不可視の存在だ。たとえば『わたしたちが孤児だったころ』の語り手クリストファー・バンクスは、子供時代に住んでいた上海で異質な存在であったが、自分たちが“全世界をつなぎとめる”任務を果たしていると感じ、大人になってもその記憶を手放さないでいる。イシグロは、このような幼少期の記憶へと回帰させる感情を〈ノスタルジー〉と呼ぶ。[3]

クララは、店長と過ごした“幼少期”に浴びた太陽光の記憶を忘れない。AFのエネルギー源である「お日さま」は、文字通り彼女の栄養素でもあるが、彼女にとっては、あらゆる生物の救世主でもある。科学技術の進歩を体現する人工知能の先祖返りと逆説的に思われるが、太陽の全能を信じながらジョジーをケアしようとするクララは、人間がシニシズムから回復し、愛の力を取り戻す可能性を示唆する。レイ・カーツワイルが唱えるシンギュラリティ、つまり、人間のような微細な感情のシグナルを人工知能が持つことの不思議さと、究極の他者でもある太古の太陽神の信仰が矛盾なく共存する物語がここにある。

キャシーがいたヘールシャムでは絵の感性が人間らしさと見なされたが、本作ではジョジーが描いた絵を、リックとクララがどう感じるかを通じて互いを理解しようとする。あらゆる人間的なもの、その充実と力と繊細さと錯綜ぶりを打ち眺めながら、人間の美しさについて語ったのはニーチェであったが、イシグロもまた、いかなる人間も――人工知能でさえ――自らの感情と対峙しながら、繊細な感受性を育むことにその生の美しさを見いだしている。

[1] 倉沢美左「カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ」東洋経済オンラインhttps://toyokeizai.net/articles/-/414929
[2] Kazuo Ishiguro, Conversations with Kazuo Ishiguro, ed. Brian W. Shaffer and Cynthia F. Wong (Jackson: University Press of Mississippi, 2008), pp.216-7.
[3] Ibid. p.184.
クララとお日さま / カズオ・イシグロ
クララとお日さま
  • 著者:カズオ・イシグロ
  • 翻訳:土屋 政雄
  • 出版社:早川書房
  • 装丁:単行本(448ページ)
  • 発売日:2021-03-02
  • ISBN-10:4152100060
  • ISBN-13:978-4152100061
内容紹介:
人工知能を搭載したロボットのクララは、病弱な少女ジョジーと出会い、やがて二人は友情を育んでゆく。愛とは、知性とは、家族とは? 生きることの意味を問う感動作。

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