書評
『イギリス人の患者』(新潮社)
詩と小説とオンダーチェ
BA008便に乗って成田から飛び立つ。いつもの調子で徹夜をしていたのでとても眠い(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年)。やがて、ゆるやかに睡りに落ち、三時間ほどで目を覚ました。機内は薄暗く、ぼくは一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。大きく背伸びをすると、読書灯をつけ、『イギリス人の患者』(M・オンダーチェ著、土屋政雄訳、新潮社)の続きを読みはじめた。
ぼくの記憶に間違いがなければ、オンダーチェの最初の翻訳は『ビリー・ザ・キッド全仕事』で、偶然手にとって頁を開いた時、ぼくは心底驚嘆したのだった。そこには、詩と小説を同時に成り立たせようという途方もない試みがあったからだ。
変な言い方だが、詩と小説は遠くにいる親戚みたいなものじゃないかと思う。いや、あるいは腹違いの兄弟みたいなものなのかもしれない。誰だってこの二つが似ていることは知っている。というか、二つをまとめて「文学」と呼んですましてしまうことも多い。人は時に詩を書き、別な時に小説を書く。詩的な小説もあれば、ほとんど小説といってもいい詩がある。では、この二つは楕円の二つの中心で、その真ん中には詩と小説が五〇%ずつ入り混じった混血児がたくさんいるのかというと、そんなことはないのだ。この理由を説明することはとても難しい。
かつて、富岡多恵子は詩作を止めて小説家へ「転身」(あるいは「転進」?)した。清岡卓行や三木卓の場合にも、同じような「事件」があったはずだ。
自分の中の「詩の神」(ミューズ)を殺してからでなければ小説へ進むことはできない。あるいはまた、「詩の神」を殺すことで一切の創作活動を放棄するに至る――どちらにせよ「詩」から離れることは「死ぬ」ことに等しい。こういう考え方を、ふつう小説家はとらない。小説家は「詩か死か」という詩人の二者択一を「過剰なロマンティシズム」と考えるだろうし、逆に詩人は小説家の中の「創造の源泉」をいつも疑うのである。
もちろん、詩と小説を並行して書き続ける作家もいる。その場合、作家は二つの人格を駆使するようになる。詩人として詩を書き、小説家として小説を書く。やはり、詩と小説を分ける壁はあまりに厚く、高いのか……。
ぼくがオンダーチェをはじめて読んだ時、驚いたのは、彼が詩人としてそのままの姿勢で小説に立ち向かっていたことだった。
『ビリー・ザ・キッド全仕事』の中には多くの詩が含まれている。全体を散文詩として読むことも可能だろう。だが、あの作品は小説なのだ。詩人が、その創造のスタイルを変えずに、小説という武器を通して眺めた時、世界はどんなふうに見えるか。その答えが『全仕事』なのだった。
それから二十年。『イギリス人の患者』は『全仕事』より遥かに小説らしい。たぶん、読者の多くは詩的な文章や詩的な比喩に、この作品が詩人によって書かれたという証拠を見つけたように思うだろう。だが、そうではない。
オンダーチェが詩と小説を同時に書き続けているのは、小説自身が持っている詩の側面に魅かれているからなのだとぼくは思う。ここに登場する四人の登場人物のそれぞれ四つの物語は濃密で時に余りに美しい。その物語は、ただそれだけで心地よい調べといくつもの意味を読者の前に広げてゆく。それは小説の機能ではなく、詩としての働きそのものではないか。彼が見つけたのはそのことだったのである。
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