英米文学では「語り直し」ブームが続いている。名作を土台に語り手や舞台設定を替えて新たな物語を紡ぎだすという手法だ。多くは女性や弱者の視点で語り直される。なかでも題材になることが多いのは、シェイクスピア劇、そしてトロイ戦争だ。トロイ戦争はヘレネを奪われた古代ギリシャ人が仕掛けた戦いであり、ホメロスをはじめ多くの作家をインスパイアし、それが西洋の「正典」の起点になってきたのだ。ヨーロッパ文学は二人の男が一人の少女を取り合ったことに始まる、というある作家の言葉が『女たちの沈黙』冒頭に引用されているが、これはまさしく『イーリアス』のことだ。
つまり、女性が原因で起きた戦いで、女たちは黙殺され続けた。『女たちの沈黙』は、トロイ戦争の英雄(男性)たちが剣をふるって戦い、女性を戦利品として遣り取りする陰で、声を与えられず沈黙を強いられてきた女性ブリセイスらの目と声で語り直す。奪われた女性たちはなにを感じ、なにに抗(あらが)っていたのか。奴隷の屈辱より死を選ぶ者もいれば、艱難の末に生きることを選ぶ者もいる。女と一括りにできない多様な生がそこにはあるのだ。