書評
『アムステルダム』(新潮社)
とかくお涙頂戴系の作品ばかりが話題になりやすい、いかにも湿度高めなニッポンの読書界。が、しかし、皆さん。笑いなくして、何が人生かっ。新しい世紀を迎えるにあたってさえ暗い話題が先行しがちな今だからこそ、気持ちだけでもカラッとさせましょうよ。
そこでおすすめしたいのがコミック・ノベルの本場、英国小説であります。天下の奇書『トリストラム・シャンディ』(岩波文庫)を書いた十八世紀のロレンス・スターン、十九世紀のディケンズ、二十世紀に入っては『交換教授』(白水uブックス)で知られるデイヴィッド・ロッジ等々と人材には事欠きません。もちろん、トール・テイル(ほら話)の宝庫アメリカ文学にだって笑いはあります。でも、イギリス人の笑いはアメリカ人のそれとは少し違うんです。人肌に近い温もりのあるユーモアに対して温度が低いエスプリ、とでも言えばいいでしょうか。つまり、読者や登場人物との間に距離を置いて突き放すシニカルな笑い。それがイギリス文学独特の風刺の苦みや黒い笑いを引き出すんです。そして、今回取り上げるイアン・マキューアンの『アムステルダム』もまた、英国小説のその手の持ち味を堪能させてくれる逸品なのです。
男性遍歴を重ねた魅惑的なファム・ファタール、モリーが死に、葬儀に参列した元恋人の三人(英国を代表する作曲家クライヴ、辣腕の新聞紙編集長ヴァーノン、野心家の外務大臣ジュリアン)。やがて、生前のモリーが戯れに撮った何枚かの写真が発見される。そこにはジュリアンの露(あらわ)な姿態が収められていて、首相の座を狙う彼にとっては致命的なスキャンダルになりかねない。その写真が火種となり、三人の男たちの人生が複雑に絡みあって事態は思ってもみない方向に突き進むのだが――!
という、ある種のオチが用意された小説なのだけれど、しかし、皆さん、これはいわゆる「よく出来たお話」的単純なアイデア・ストーリーとは次元が違う小説なんです。シチュエーションの妙がもたらす皮肉な結末が生む苦い笑いの魅力もさることながら、そこに至るまでの細部を大切にした才気溢れる描写が素晴らしい! 交響曲が作られる過程、新聞社の内幕、かつての愛の思い出、それに比べ醜い現世での自己保身のあれこれ。淀みのない華麗な筆致が、もっとも美しい瞬間にこそ、もっとも醜いものを見いだしてしまう(その逆もまた真)人間、その本質をイキイキと描き出しているんです。しかも、そうした読んで面白いエピソードの集積が全て、実は「!」な結末の伏線になっているのだから凄いでしょう? ここには文学という芸術が二十世紀に至って到達した洗練の極みがあります。まさに大人のための小説。
この小説がお気に召しましたら、最新翻訳『愛の続き』(新潮社)もぜひ! これまた三角関係を描いているのですが、こちらのほうは多分にニューロティック(神経症的)で恐ろしい内容になっています。恐怖もイギリス文学の得意分野。これを機に、英国小説を愉しみ倒して下さいませ。
【この書評が収録されている書籍】
そこでおすすめしたいのがコミック・ノベルの本場、英国小説であります。天下の奇書『トリストラム・シャンディ』(岩波文庫)を書いた十八世紀のロレンス・スターン、十九世紀のディケンズ、二十世紀に入っては『交換教授』(白水uブックス)で知られるデイヴィッド・ロッジ等々と人材には事欠きません。もちろん、トール・テイル(ほら話)の宝庫アメリカ文学にだって笑いはあります。でも、イギリス人の笑いはアメリカ人のそれとは少し違うんです。人肌に近い温もりのあるユーモアに対して温度が低いエスプリ、とでも言えばいいでしょうか。つまり、読者や登場人物との間に距離を置いて突き放すシニカルな笑い。それがイギリス文学独特の風刺の苦みや黒い笑いを引き出すんです。そして、今回取り上げるイアン・マキューアンの『アムステルダム』もまた、英国小説のその手の持ち味を堪能させてくれる逸品なのです。
男性遍歴を重ねた魅惑的なファム・ファタール、モリーが死に、葬儀に参列した元恋人の三人(英国を代表する作曲家クライヴ、辣腕の新聞紙編集長ヴァーノン、野心家の外務大臣ジュリアン)。やがて、生前のモリーが戯れに撮った何枚かの写真が発見される。そこにはジュリアンの露(あらわ)な姿態が収められていて、首相の座を狙う彼にとっては致命的なスキャンダルになりかねない。その写真が火種となり、三人の男たちの人生が複雑に絡みあって事態は思ってもみない方向に突き進むのだが――!
という、ある種のオチが用意された小説なのだけれど、しかし、皆さん、これはいわゆる「よく出来たお話」的単純なアイデア・ストーリーとは次元が違う小説なんです。シチュエーションの妙がもたらす皮肉な結末が生む苦い笑いの魅力もさることながら、そこに至るまでの細部を大切にした才気溢れる描写が素晴らしい! 交響曲が作られる過程、新聞社の内幕、かつての愛の思い出、それに比べ醜い現世での自己保身のあれこれ。淀みのない華麗な筆致が、もっとも美しい瞬間にこそ、もっとも醜いものを見いだしてしまう(その逆もまた真)人間、その本質をイキイキと描き出しているんです。しかも、そうした読んで面白いエピソードの集積が全て、実は「!」な結末の伏線になっているのだから凄いでしょう? ここには文学という芸術が二十世紀に至って到達した洗練の極みがあります。まさに大人のための小説。
この小説がお気に召しましたら、最新翻訳『愛の続き』(新潮社)もぜひ! これまた三角関係を描いているのですが、こちらのほうは多分にニューロティック(神経症的)で恐ろしい内容になっています。恐怖もイギリス文学の得意分野。これを機に、英国小説を愉しみ倒して下さいませ。
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