書評

『贖罪』(新潮社)

  • 2020/08/10
贖罪 / イアン・マキューアン
贖罪
  • 著者:イアン・マキューアン
  • 翻訳:小山 太一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(637ページ)
  • 発売日:2018-12-22
  • ISBN-10:4102157255
  • ISBN-13:978-4102157251
内容紹介:
13歳の夏、作家を夢見るブライオニーは偽りの告発をした。姉セシ ーリアの恋人ロビーの破廉恥な罪を。それがどれほど禍根を残すかなど、考えもせずに──引き裂かれた恋人たちの運命。ロビーが味わう想像を絶する苦難。やがて第二次大戦が始まり、自らが犯した過ちを悔いたブライオニーは看護婦を志す。すべてを償うことは可能なのか。そしてあの夏の真実とは。現代英文学の金字塔的名作!
一人の少女がついたひとつの嘘。それが、ひと組の若いカップルの人生を狂わせていく――。『アムステルダム』でブッカー賞を受賞した、英文学界を代表する作家イアン・マキューアンが、その三年後に書き上げた大河小説は、罪を贖うことの可能・不可能性を深く追求する容赦ない傑作だ。

物語はマンスフィールドの『園遊会』を思わせる、のどかな情景から幕をあける。一九三五年夏、十三歳の少女ブライオニー・タリスは休暇で帰省してくる兄とその友人を、自作の芝居で迎えるべく朝から大忙し。両親の破局が原因でタリス家に預けられた従姉弟(十五歳のローラと九歳の双子の兄弟)を巻き込みながら、しかし、準備は遅々として進まない。一方、大学は卒業したものの、身の振り方が定まらない姉のセシーリアは、自分をこの退屈な家に引き留めているものの正体がわからず鬱屈した心を抱え込んでいた。しかし、やがてそれは明らかになる。使用人の息子で幼なじみのロビーの存在。ぎこちない会話と小さな諍いを経て、二人は互いの気持ちを確かめあう。ところが晩餐の後、家出してしまった双子を探している最中に、ローラが強姦されるという事件が発生。幾つかの誤解を通してロビーに敵意を抱いていたブライオニーは、勢い込んで告発する。犯人はロビーだ、と。

ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』のように、たった一日の出来事を描き尽くし、美しくも残酷な余韻を残す第一部。しかし、人生は続くのだ。「人間の精神に入りこんで、その働きを、そして外界からの働きかけを言葉に表わすこと、それも幾何学的バランスの取れた形式で表現すること」という、後年作家となるブライオニーが理想とするような完璧な描写とスタイルで描かれた、このたった一日の後にも、そう、人生は続くのだ。

三年半にも及ぶ刑務所暮らしの後、第二次世界大戦に一兵卒として従軍し、フランスで敗走しているロビー。その彼に「待っています。戻ってきて」という手紙を出し続ける看護婦のセシーリア。何ものにも損なわれることのない二人の愛を、戦争という悲劇の中にくっきりと浮かび上がらせる第二部。大学には進学せず、姉の後を追うように看護婦となっているブライオニー。かつて自分がついた偽りの証言、その罪の意識にさいなまれ贖罪(しょくざい)を心の底から願う彼女の葛藤を描く第三部。ローラを襲った真犯人は誰なのか、ブライオニーが狂わせてしまったロビーとセシーリアの人生は修復可能なのか、果たしてブライオニーは罪を贖うことができるのか。あの“たった一日”の後の人生を二つの側面から描くこのパートがもたらすサスペンスは、ありていのミステリーなどでは決して味わえないほどの深みと滋味と痛みと感動を伴って、読む者を文字通り震撼させる。そして願わずにはいられなくなるはずなのだ、贖罪の成就を、三人の幸せを。

が、われわれはその後に、エピローグを迎えなくてはならない。一九九九年、ブライオニーは七十七歳になっている。医師から脳血管性痴呆症を宣言され、自分の人生の終幕を予感している彼女は、親類縁者が生家で開いてくれる誕生パーティに出席。あの一九三五年の夏の日に上演することがかなわなかった自作の芝居が、曾孫世代によって演じられる様を存分に楽しむ。幸福なひと時の後、しかし、この物語の語り部たる彼女は読者に明かすのだ。四三六ページから四三八ぺージにかけての告白がもたらす衝撃と哀しみ、やがてもたらされる諦念は、わたしたちを第二・三部の物語へと立ち返らせずにはおかない。全てを読み返さずにはいられなくなるのだ、この告白を読んだ暁には!

「人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生むこともあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ。物語が持つべき教訓はその点に尽きるのだ」。かつて少女だったブライオニーはそう考えた。にもかかわらず、「秘密の要素を有するのみならず、あらゆるものをミニチュア化する愉しみを与えてくれる」物語を書くという行為、つまり神になりかわる行為に溺れた少女は、それゆえに虚偽の証言を行ない、他者の人生を損なった。そして七十七歳の大作家となった彼女はこう記す。「物事の結果すべてを決める絶対権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか?」と。

これは罪と贖罪と愛、その真実の姿をとことん描きぬいた物語であると同時に、十九世紀末から現代に至る小説の骨法を注ぎこむことで、文学の可能・不可能性を追求した作品でもある。全ての小説愛好家は読まなければならない。これは義務である。しかし、とてつもないスケールの歓びを伴う義務なのである。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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贖罪 / イアン・マキューアン
贖罪
  • 著者:イアン・マキューアン
  • 翻訳:小山 太一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(637ページ)
  • 発売日:2018-12-22
  • ISBN-10:4102157255
  • ISBN-13:978-4102157251
内容紹介:
13歳の夏、作家を夢見るブライオニーは偽りの告発をした。姉セシ ーリアの恋人ロビーの破廉恥な罪を。それがどれほど禍根を残すかなど、考えもせずに──引き裂かれた恋人たちの運命。ロビーが味わう想像を絶する苦難。やがて第二次大戦が始まり、自らが犯した過ちを悔いたブライオニーは看護婦を志す。すべてを償うことは可能なのか。そしてあの夏の真実とは。現代英文学の金字塔的名作!

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波

波 2003年6月号

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