書評

『土曜日』(新潮社)

  • 2018/08/05
土曜日 / イアン・マキューアン
土曜日
  • 著者:イアン・マキューアン
  • 翻訳:小山 太一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(351ページ)
  • 発売日:2007-12-01
  • ISBN-10:4105900633
  • ISBN-13:978-4105900632
内容紹介:
ある土曜日の朝4時。ふと目が覚めた脳神経外科医ヘンリー・ペロウンは窓の外に、炎を上げながらヒースロー空港へ向かう飛行機を目撃する。テロか?まさか?弁護士の妻、ミュージシャンの息子、詩… もっと読む
ある土曜日の朝4時。ふと目が覚めた脳神経外科医ヘンリー・ペロウンは窓の外に、炎を上げながらヒースロー空港へ向かう飛行機を目撃する。テロか?まさか?弁護士の妻、ミュージシャンの息子、詩人となった娘…充足しているかに見えるその生活は、だが一触即発の危機に満ちていた-。名匠が優美かつ鮮やかに切り取るロンドンの一日、「あの日」を越えて生きるすべての人に贈る、静かなる手紙。ブッカー賞候補作、ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞受賞。

端正でノーマルで複雑で明晰な小説

小説とは何か、を知りたい人は、これを読むといいと思う。小説とは何か、なんてどうでもいいけれど、熱のあるときにしゃぶる氷みたいな本が読みたい、という人(がもしいればその人)は、さらにもっと、もうどうしたってこの本を読むべきだと思う。

ペロウンという名の一人の英国人男性――年齢は四十代後半と思われる――の、ある一日。内容をひとことで言うとそうなる。ではそれの一体どこがおもしろいのか、といえば、見事な複雑さだ。登場人物が多いとか、ペロウンに特殊な過去があるとか、そういうことではない。ある人間のある一日というものは、当然ながらそれだけで、実に実に複雑なのだ。

ロンドンに住む脳神経外科医の主人公・ペロウンには妻がいる。十八歳の息子(ブルース・ミュージシャン)と、その姉で大学院生の娘(パリ在住)がいる。認知症を患って施設で暮している母親がいて、高名な詩人である義父もいる。そういう男のある一日をマキューアンが書くとどうなるか。化学的、と言いたいほど明晰(めいせき)で透徹した視線を、というよりそのような眼球と思考を、読者は与えられるのだ。

たとえばこの小説のなかには家族が存在し、孤独が存在し、誇りが、不安が、知性が、音楽が存在する。愛情が、政治思想が、恐怖が、議論が、罪悪感が、信頼が、羞恥(しゅうち)心が存在し、猜疑(さいぎ)心や老いや若さや情熱や、書き連ねればきりがないほど多くのものが存在するのだが、それらはただ存在しているのであって、一切の定義づけをされていないばかりか相関関係さえほぼ否定されているように見える(愛情と孤独は同時に別々に存在しているのであって、愛しているから孤独だとか、愛がないから孤独だとかいうわけではない。信頼と家族もまた同時に別々に存在しているのであって、信頼しているから家族なわけではなく、家族だから信頼するわけでもない)。妥協のない、潔癖なまでに精緻(せいち)なマキューアンの文体は、そういう視点を可能にする。そこでは人間の知性も愚かさも、おなじ注意深さで扱われる。

細部の描写や形容が多いことも、この本の特徴の一つだ。寝室の窓から見おろす、早朝のロンドンの澄んだ暗いつめたい空気、広場に落ちている「鳩(はと)の糞(ふん)も距離のおかげで固まって見えるためにいっそ美しいくらいで、まるで雪を散らしたよう」だし、「あふれ返ったごみ箱は猥雑(わいざつ)よりもむしろ豊饒(ほうじょう)を思わせ」る。施設にいる母親の、「細かく皺(しわ)の寄った明るい茶色の肌のくぼみに深く埋め込まれた薄い緑色の眼は、草の下の埃(ほこり)っぽい石のように単調でぼんやりした感じがある」。スープの出汁(だし)用に買ったエイの・あらの、「頭は無傷のままで、唇は少女のように豊か」だ。

注意深く新味をはぎとった、わかりやすい、過剰なまでにたくさんの形容。気が遠くなるくらい清潔な方法で、マキューアンは小説のなかに日常を構築していく。そこには、読者に自意識を失わせる力がある。ペロウンが友人とスカッシュをする場面は圧巻だった。活字を追ううちに私はゲームに没頭し、むきになり、苛立(いらだ)ち、疲労し、いいショットが決まれば快哉(かいさい)を叫び、スピードに満足し、怯(おび)え、自分の執着を恥じさえした。ペロウンのように。

端正だけれどノーマルな、だからこそ効果的な文章の集積。それを読むのはほんとうにたのしい。惜しげもなくふるまわれる言葉の甘露だし、熱のあるときにしゃぶる氷みたいなのだ。こういうのを技術というのだろうと思う。

マキューアンの前作『贖罪(しょくざい)』のなかに、十三歳の少女が自分の手をしげしげ眺める場面があった。おそろしく美しい場面で、下手に引用したくないので乱暴を承知で要約すると、少女は自分の手を奇妙に思う。それが自分のものであることも、自由に動かせるということも。そして、自分の肉体を訝(いぶか)しむことで、それを訝しんでいる自分――肉体とはあきらかに別の存在である自分――の鮮烈さに打たれる。あまりにも鮮烈で、これほど奇妙な仕方で存在しているのは自分だけであるように感じる。他の人たちが自分とおなじように鮮烈に存在しているとは、にわかに信じられないのだ。これに類することは、子供のころに誰もが考えるのだろうと思う。ペロウンは大人なので、勿論(もちろん)そんなことは考えない。けれど私は『土曜日』を読んで、人間というのはその感覚から決して十全には逃れられないのかもしれないと思った。なぜなら意識は個別の肉体に閉じ込められているからで、それがこの小説のあちこちに――家族という極めて親しい間柄の人間同士の会話のなかにさえ――他者への違和感となってくり返し現れ、ときに世界との一体感(のようなもの)を生みもするのではないか。

ペロウンには、ある種の子供っぽさがあるのだ。そして、だからこそこの本は、すべての概念の不確かさの上に、成り立つことができたのだと思う。(小山太一・訳)
土曜日 / イアン・マキューアン
土曜日
  • 著者:イアン・マキューアン
  • 翻訳:小山 太一
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(351ページ)
  • 発売日:2007-12-01
  • ISBN-10:4105900633
  • ISBN-13:978-4105900632
内容紹介:
ある土曜日の朝4時。ふと目が覚めた脳神経外科医ヘンリー・ペロウンは窓の外に、炎を上げながらヒースロー空港へ向かう飛行機を目撃する。テロか?まさか?弁護士の妻、ミュージシャンの息子、詩… もっと読む
ある土曜日の朝4時。ふと目が覚めた脳神経外科医ヘンリー・ペロウンは窓の外に、炎を上げながらヒースロー空港へ向かう飛行機を目撃する。テロか?まさか?弁護士の妻、ミュージシャンの息子、詩人となった娘…充足しているかに見えるその生活は、だが一触即発の危機に満ちていた-。名匠が優美かつ鮮やかに切り取るロンドンの一日、「あの日」を越えて生きるすべての人に贈る、静かなる手紙。ブッカー賞候補作、ジェイムズ・テイト・ブラック記念賞受賞。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2008年4月6日

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