膨大なエピソード収斂、深い充足感
著者は一九五九年ロンドン生まれ。母方からイギリス人、アイルランド人、ドイツ人の、父方からナイジェリア人、ブラジル人の血を受け継いでいるという。また、エヴァリストはこの作品で、二〇一九年のブッカー賞を受賞、「五十年の歴史で初の黒人女性受賞者」ということである。小説に登場するのも、黒人たち、どこかで黒人の血を引くミックス・レイスの女性たちだ。そう書いていて少し居心地が悪くなるのは、そのルーツがナイジェリアだったりガーナだったりカリブから来ていたり、ソマリア人だったり、あるいはインド系だったりと、当たり前のことだけれども、「黒人」と、ひとくくりにするのがためらわれるほど様々だからだ。
小説は、違うバックグラウンドと経験を持つ人々を、スピーディーに、ていねいに描き出す。
キーパーソンは劇作家のアマ。彼女の書いた戯曲『ダホメ王国最後のアマゾン』が、ロンドンの権威あるナショナル・シアターで上演される。ガーナ人の父とスコットランド生まれの「混血児」(父はナイジェリア人)を母に持つレズビアンのアマは、差別に抗(あらが)い、体制に反逆して生きてきた。五十代になって時代が彼女に追いついたのだ。
初日、家族や友人たちがやってくる。登場人物たちは、人種的に多様であるだけでなく、性自認や性的指向、性表現も多様だ。
テンポのいい、ユーモアセンスの光る語り口と深いエピソードが、出自や属性だけを聞けば遠く感じそうな登場人物たちの内面深くに、読者をするりと入り込ませる。
アマが駆け出しのころに一緒に劇団を立ち上げたドミニク。彼女もレズビアンで、アマと袂(たもと)を分かったのちに、フェミニスト分離主義カルトの親玉のような女性と出会ってしまうのだが、ひどい束縛やモラルハラスメントに苦しむドミニクのエピソードが読み手の心を揺さぶるのは、そうした支配/被支配の人間関係が往々にしてありえることを、私たちが知っているからだろう。
ナイジェリア人の母を持つキャロルが、トラウマになるようなレイプ体験を心の底に封印して、鬼教師シャーリーのもとで成績を上げオックスフォードに進学し、ほとんどの科目でトップの成績を維持しながらも、白人だらけのキャンパスで孤立し「あそこあたしのいるとこじゃないから戻らない/無理だよお母ちゃん」と叫ぶときの心細さ。「おまえの友だちになりたいって相手を見つけるんだよ、たとえそれが全員白人だって/この世界には、だれにだってだれかがいるんだからさ」と言い返す母親のバミの言葉が胸を打つ。
世代も、十代から九十代まで、十二人にスポットライトが当たるが、周辺人物まで入れれば、たいへんな人数が登場する。生意気で「意識の高い(ウォーク)」、アマの娘のヤズ(ゲイのローランドに精子提供を受けてアマが妊娠・出産した)が最年少だが、そんな怖いもの知らずの現代っ子が登場するまでに、数えきれないほどの「少女、女、ほか」の苦闘があったのだ。みな、しっかりした声を持ち、そして、どこかでつながっている人々だ。
膨大なすべてのエピソードを収斂(しゅうれん)させるエピローグにたどり着くと、深い充足感と幸福感がこみあげて来る。