書評
『パイの物語』(竹書房)
皆さん、これ、児童書じゃありませんから。あと、お菓子の話でもありませんから。パイはπ、主人公の十六歳の少年ピシン・モントール・パテルの愛称なんであります。
ったく、装幀のコンセプトで損をするとはこのことですよ。世界でもっとも権威ある文学賞のひとつ、ブッカー賞受賞作品をこんな児童書みたいな装幀で売り出さんとする版元の意図がわからない。というわけで、声を大にして訂正させてもらいます。これはっ、児童書では、あ・り・ま・せ・ん! デフォー作『ロビンソン・クルーソー』のスタイルを借りた上で、“語り=騙(かた)り”並びに“信用ならざる語り手”の手法を駆使した大人のための小説なんです。
一九七七年、インド南部の町で動物園を経営する一家が新天地を求めてカナダに移住せんと、何頭かの動物と共に日本の貨物船に乗り込む。ところが、船は沈没。主人公のパイは救命ボートに乗ることができて一命をとりとめるのだけれど、やがてそこに顔なじみのリチャード・パーカーが乗り込もうとしてくる。それを必死で阻止するパイ。……いや、別にこの主人公少年が非情だというわけじゃないんです。装幀画や帯の紹介文で明かされてるから、書いてもいいと思うんですが、リチャード・パーカーってのは三歳の雄のベンガルトラなんですよ。その他、ボートに乗り込んで助かったのは、ケガをしたシマウマ、ハイエナ、オランウータン。かくして、小さなノアの箱舟といった様相を呈したボートの上で熾烈な生き残り競争が始まり――。
宗教と動物学に魅せられたパイ少年の幼年期を描いた第一部。七ヵ月以上もの間、大海原をトラと共に漂流することになったサバイバルを描く第二部。そして、大変な哀しみを伴う驚きをもたらす第三部。海洋冒険小説や漂流小説の系譜に連なる第二部がメインの作品ではあるし、このパートの面白さは格別でもあるのだけれど、第三部を読むと印象はガラリと変わってしまうはず。生き残るために少年がどれほどのものを諦め、どれほどの苛酷に耐え、どれほどの絶望に直面したのか。その本当の意味が切々と伝わってくる、短いながらも衝撃的なパートなのです。ライターズ・ブロックにぶちあたった作者本人を思わせる作家が、稀有な体験をした男を紹介される「覚え書きとして」という導入部と呼応しあう出色の着地点というべきでしょう。曲者の物語を愛する、すべての読書人にお薦めしたい傑作なんであります。
【下巻】
【この書評が収録されている書籍】
ったく、装幀のコンセプトで損をするとはこのことですよ。世界でもっとも権威ある文学賞のひとつ、ブッカー賞受賞作品をこんな児童書みたいな装幀で売り出さんとする版元の意図がわからない。というわけで、声を大にして訂正させてもらいます。これはっ、児童書では、あ・り・ま・せ・ん! デフォー作『ロビンソン・クルーソー』のスタイルを借りた上で、“語り=騙(かた)り”並びに“信用ならざる語り手”の手法を駆使した大人のための小説なんです。
一九七七年、インド南部の町で動物園を経営する一家が新天地を求めてカナダに移住せんと、何頭かの動物と共に日本の貨物船に乗り込む。ところが、船は沈没。主人公のパイは救命ボートに乗ることができて一命をとりとめるのだけれど、やがてそこに顔なじみのリチャード・パーカーが乗り込もうとしてくる。それを必死で阻止するパイ。……いや、別にこの主人公少年が非情だというわけじゃないんです。装幀画や帯の紹介文で明かされてるから、書いてもいいと思うんですが、リチャード・パーカーってのは三歳の雄のベンガルトラなんですよ。その他、ボートに乗り込んで助かったのは、ケガをしたシマウマ、ハイエナ、オランウータン。かくして、小さなノアの箱舟といった様相を呈したボートの上で熾烈な生き残り競争が始まり――。
宗教と動物学に魅せられたパイ少年の幼年期を描いた第一部。七ヵ月以上もの間、大海原をトラと共に漂流することになったサバイバルを描く第二部。そして、大変な哀しみを伴う驚きをもたらす第三部。海洋冒険小説や漂流小説の系譜に連なる第二部がメインの作品ではあるし、このパートの面白さは格別でもあるのだけれど、第三部を読むと印象はガラリと変わってしまうはず。生き残るために少年がどれほどのものを諦め、どれほどの苛酷に耐え、どれほどの絶望に直面したのか。その本当の意味が切々と伝わってくる、短いながらも衝撃的なパートなのです。ライターズ・ブロックにぶちあたった作者本人を思わせる作家が、稀有な体験をした男を紹介される「覚え書きとして」という導入部と呼応しあう出色の着地点というべきでしょう。曲者の物語を愛する、すべての読書人にお薦めしたい傑作なんであります。
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