書評
『自虐の詩』(竹書房)
一人でも多くの人に読んでもらいたいと思っていたところだ。いい機会だ。業田良家のマンガ『自虐の詩』(上下二巻、竹書房文庫)を強力におすすめしたい。
『自虐の詩』は一九八五年から九〇年まで『週刊宝石』に連載されていたもので、当時から一部で熱狂的に騒がれていたものだが、つい先月(95年)、新しく文庫本になった。一部をカットした濃縮版である。
週刊誌に連載されていた頃は、私はほとんど見ていない。ほんの数回見ただけで、絵柄の貧乏くささにめげて、敬遠してしまったのだ。
しかし、今回こうして文庫本になったのを一気に通しで読んでみて、「こんなに凄いマンガだったのか。こんなに大きなマンガだったのか」と驚いた。「あんまり詳しくないのに言うのもなんだが……今の日本の映画でも小説でも、こんな感動を与えてくれるものはめったにないだろう。完全にマンガに超えられている」と思った。
スタイルから言うと、四コマのギャグマンガである。幸江という女とイサオという男。この一組の男女がこのマンガのいちおう主役になっている。
幸江という女の顔に驚く。ブスである。目は一貫して一本のスジで表現されていて、目玉がない(伏し目がちという表現か)。目玉のないヒロインというのも珍しい。思い切って貧相で、薄幸そうな顔である。
いっぽう、イサオのほうは太いマユと大きな目玉の持ち主で、あごのあたりは毛深く、頭にはきついパンチパーマがかかっている。どうやら暴力団あがりらしい。
見るからに弱々しいが働き者の幸江を、見るからに活力あふれながら怠け者のイサオが完全に搾取している。極端に古風にド演歌に不幸な男女関係、その極端さが笑いを誘う。上巻の大半は、逆上したイサオがテーブルを引っ繰り返す図が、ルーティンギャグ(おきまりのギャグ)になっている。
しかし、下巻になるとだんだん様相が変わってくる。一見不幸そうな幸江とイサオの、独特の幸福がすかし見えてくる。と同時に、しだいに幸江の過去が物語の前面にせり出してくる。四コマのギャグマンガがしだいにとうとうたる大河ロマンの様相を呈してくるのだ。
作者に幸江が乗り移ったのだと思う。おそらく作者は最初からこういうものを描くつもりではなかったのだろう。あくまで普通のギャグマンガの枠の内で面白いものを描くつもりだったのだろう。にもかかわらず途中から作中人物のほうがギャグマンガの枠から飛び出してきてしまったのだろう。りちぎにギャグマンガの基本を守り、オチで笑わせようとする作者と、壮絶なストーリーを語り始める幸江(および他の作中人物)との攻防が、「四コマにして大河ロマン」という不思議な作品を生み出した。
幸江の少女時代のクラスメート「熊本さん」がすばらしい。とことん貧しく、ブスで、気丈な女の子。この「熊本さん」登場部分は、いわゆる「差別意識」に関して、まったく、深く鋭く突っ込んで描かれたものだ。作者は「差別は悪い」ではなく「差別は必ずある。人はそれで救われることさえある」というところからスタートして、そこのところをじっくり描き、さらにその先をけんめいに手探りしている。
運命を呪っていた幸江が朝日の中で「生」それ自体の重みをかみしめて手紙につづる、「この人生を二度と幸や不幸ではかりません」という言葉、そしてラストシーンでの「幸や不幸はもういい、どちらにも等しく価値がある。人生には明らかに意味がある」という言葉が、胸に深々としみ渡る。
最後の「完」の一字がまぶしい。渾身の名作だと思う。作者は大きな満足をもって筆をおいたに違いない。
【この書評が収録されている書籍】
『自虐の詩』は一九八五年から九〇年まで『週刊宝石』に連載されていたもので、当時から一部で熱狂的に騒がれていたものだが、つい先月(95年)、新しく文庫本になった。一部をカットした濃縮版である。
週刊誌に連載されていた頃は、私はほとんど見ていない。ほんの数回見ただけで、絵柄の貧乏くささにめげて、敬遠してしまったのだ。
しかし、今回こうして文庫本になったのを一気に通しで読んでみて、「こんなに凄いマンガだったのか。こんなに大きなマンガだったのか」と驚いた。「あんまり詳しくないのに言うのもなんだが……今の日本の映画でも小説でも、こんな感動を与えてくれるものはめったにないだろう。完全にマンガに超えられている」と思った。
スタイルから言うと、四コマのギャグマンガである。幸江という女とイサオという男。この一組の男女がこのマンガのいちおう主役になっている。
幸江という女の顔に驚く。ブスである。目は一貫して一本のスジで表現されていて、目玉がない(伏し目がちという表現か)。目玉のないヒロインというのも珍しい。思い切って貧相で、薄幸そうな顔である。
いっぽう、イサオのほうは太いマユと大きな目玉の持ち主で、あごのあたりは毛深く、頭にはきついパンチパーマがかかっている。どうやら暴力団あがりらしい。
見るからに弱々しいが働き者の幸江を、見るからに活力あふれながら怠け者のイサオが完全に搾取している。極端に古風にド演歌に不幸な男女関係、その極端さが笑いを誘う。上巻の大半は、逆上したイサオがテーブルを引っ繰り返す図が、ルーティンギャグ(おきまりのギャグ)になっている。
しかし、下巻になるとだんだん様相が変わってくる。一見不幸そうな幸江とイサオの、独特の幸福がすかし見えてくる。と同時に、しだいに幸江の過去が物語の前面にせり出してくる。四コマのギャグマンガがしだいにとうとうたる大河ロマンの様相を呈してくるのだ。
作者に幸江が乗り移ったのだと思う。おそらく作者は最初からこういうものを描くつもりではなかったのだろう。あくまで普通のギャグマンガの枠の内で面白いものを描くつもりだったのだろう。にもかかわらず途中から作中人物のほうがギャグマンガの枠から飛び出してきてしまったのだろう。りちぎにギャグマンガの基本を守り、オチで笑わせようとする作者と、壮絶なストーリーを語り始める幸江(および他の作中人物)との攻防が、「四コマにして大河ロマン」という不思議な作品を生み出した。
幸江の少女時代のクラスメート「熊本さん」がすばらしい。とことん貧しく、ブスで、気丈な女の子。この「熊本さん」登場部分は、いわゆる「差別意識」に関して、まったく、深く鋭く突っ込んで描かれたものだ。作者は「差別は悪い」ではなく「差別は必ずある。人はそれで救われることさえある」というところからスタートして、そこのところをじっくり描き、さらにその先をけんめいに手探りしている。
運命を呪っていた幸江が朝日の中で「生」それ自体の重みをかみしめて手紙につづる、「この人生を二度と幸や不幸ではかりません」という言葉、そしてラストシーンでの「幸や不幸はもういい、どちらにも等しく価値がある。人生には明らかに意味がある」という言葉が、胸に深々としみ渡る。
最後の「完」の一字がまぶしい。渾身の名作だと思う。作者は大きな満足をもって筆をおいたに違いない。
【この書評が収録されている書籍】
朝日新聞 1996年1月13日
朝日新聞デジタルは朝日新聞のニュースサイトです。政治、経済、社会、国際、スポーツ、カルチャー、サイエンスなどの速報ニュースに加え、教育、医療、環境、ファッション、車などの話題や写真も。2012年にアサヒ・コムからブランド名を変更しました。
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