解説
『島っ子 (1) (ちばてつや全集)』(ホーム社)
「したたかさ」を兼ね備えた「かしこい女の子」の創出
ちばてつやの漫画の特徴の一つに、新しいタイプの女の子のイメージを作りあげたことがあげられるのではないかと思う。従来からあった「お転婆」というのとは一味ちがった、理性的なかしこさをもった女の子、すなわち、自分の判断力だけを頼りにして行動することのできる女の子というものの造形である。それをもっとも雄弁に物語っているのが、ちばてつやの描く女の子の「顔」である。たとえば、『島っ子』の五十嵐ミチの顔は、同時代、あるいは先行世代の漫画家のそれとははっきりと異なっている。ひとことでいえば、五十嵐ミチは、たんに男勝りであるだけでなく、かしこい顔をしているのである。しかも、そのかしこさは、これまでの漫画にあらわれた「頭のいい女の子」というのとは次元を異にしている。
一例をあげれば、ちばてつやは、ミチのかしこさを、勉強がよくできるということとはまったく違ったものとして描いている。もちろん、五十嵐ミチは勉強もよくできる。途中から島に赴任してきた戸村先生の出すむずかしい知識問題にすらすらと答えられるし、ガリ勉の転校生の八田真理子とも十分に張り合うことができる。しかし、ミチも、ちばてつやも、そんなことには少しも価値をおいていない。それどころか、ミチは知識などというものはすこしも大切ではないと戸村先生にむかってはっきりと言う。
では、ミチのかしこさは、ひところのウーマン・リヴのような、やたらに理屈をふりまわしたがる原則論なのかというと、それともまったく別物である。その証拠に、ミチは戸村先生が「きみは、生徒のぶんざいで教師にさからうのか」と反撃すると、「ただ、あたしたちの頭の力はある程度わかったと思います。きょうはもう帰ってもいいんじゃありません?」というように、いったん正面からの対決を避けて、相手の裏をかく「したたかさ」を身につけている。
ここがミチの「かしこさ」の新しいところである。悪い大人たちや愚かな大人たちをやっつけるために、無力な小さな女の子ができることは限られている。ただ、清く正しく美しいだけではダメなのだ。相手がズルくて汚いやり方でくるなら、そのズルさ、汚さに負けないような「したたかさ」を発揮しなければならない。しかも、正義から逸脱することなしに、それをやってみせることが必要だ。もちろん、それは難しい。だが、けっして不可能なことはではない。
『島っ子』は、ちばてつやが理想とする、本当の意味で「かしこい」女の子というものを描ききった作品だと思う。これからは、女の時代だといわれるが、現代の日本に欠けているのは、こうした「したたかさ」を兼ね備えた「かしこさ」である。この意味で、『島っ子』をはじめとするちばてつやの女の子漫画は、いまこそ読み返されるべきものなのである。
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