書評
『私の「漱石」と「龍之介」』(筑摩書房)
読みたい新刊が次から次へと出てくるので、なかなかうまくいかないのだが、漱石は自分の今後の読書人生の中心に据えて読んでいきたいと思っている。ぽつりぽつりと焦らずに。それで、今すぐ読めなくても、書店で漱石関係の本を見かけると買わずにはいられなくなる。老後の楽しみに――みたいな気持だ(ああ、何とかして眼と頭だけは元気でありたいものだが……すでにしてあんまり自信なし)。
内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』(ちくま文庫)もそんな一冊で、これは短いエッセー集なので、すぐに読んだ。
やっぱりおかしな人だわ、いや漱石はとか龍之介はとか言うんじゃなくて、百閒という人は。
「漱石先生臨終記」の中の、悲しみの描写に唸る。ちょっと奇妙な心の動き方だが、実際には悲しみというものはこんなふうにしてやってくるものだと思わせる、まったくリアルな描写である。ちょっと長いが引用してみる。
こういう文章に触れるたび、私の頭にはフッと「飼い馴らされぬ感情という名のけだもの」という言葉が浮かぶ。私は百閒の何が好きかというと、その喜怒哀楽の動き方がけだもののようだからだと思う。首にクサリなどつけられず、野を疾(はし)る高貴なけだもの。
多くの人びとは自分を疑うこともなく笑ったり泣いたりしているが、しかし、その喜怒哀楽をよくよく見てみると、首根っ子にクサリをつけられて、「世間」という杭(くい)にしっかりつながれて、そのクサリの長さの範囲内をウロウロしているにすぎないように見える。あるいは、たづなをつけられた馬のように、「世間」という乗り手に操られて、行先を決められて突進しているだけにすぎないように見える。まあ、簡単に言ってしまえば「型にはまっている」「分別くさい」ということなんだけど。小難しく言うと「感情さえも管理されている」とか「制度化された感受性」ということなんだけど(当然そういうシステム中で成り立つ文学というのもあるわけだ。あって、いい。ただ私にはあんまり興味がないだけだ)。
結局、文学というものに何を期待しているか、何を求めて本を読むのか、というところで、好みは大きく分かれるのだと思うが、私は百閒のような、変な心の動き方をする人の文章を読むのが、うれしい。
この『私の「漱石」と「龍之介」』の中で一番百閒らしいと思ったのは、「掻痒記」と題された、頭におできができたときの話だ。
いくら掻(か)きむしってもかゆみがおさまらず、ひとに縦横無尽にひっぱたいて、掻き廻してもらうと「自分の頭が三角になる様で、私は痛快の感に堪へない」というところ。女中も金だらいで膝頭の大きなはれものを洗っていたのを知り、「家の中ぢゆうおできだらけになる様な、いやな気持がした」というところ。病院の看護婦がぴかぴか光る鋏(はさみ)で髪の毛を刈ったのだが、その刈り方が「非常に荒らつぽく、やり方が痛烈を極め、髪の毛を切つてゐるのだか、頭の地を剪み取つてゐるのだか、よく解らなかつた。それが大変私の気に入つて、もつと深く頭の皮を剝いでくれればいいと念じた」というところ。看護婦にぎゅうぎゅうに包帯を巻かれて、すっぽり白頭巾をかぶったようになったが、その巻き方が固くて「何だか首を上の方に引き上げられる様でもあり、又首だけが、ひとりでに高く登つて行く様な気持もして、上ずつた足取りで家に帰つて来た」というところ。
こういう、何と言うのかな――生理的、体感的な描写がとても繊細で的確で、面白い。
このあと、「本当に癒つてしまつた様な気になりたい」と思って、丸坊主になろうと、理髪店のはしごをする話も妙だ。
おできとは直接関係ないのだが、この「掻痒記」の前半にチラチラ出没する「掃除町の運送屋」のおやじのセリフが、生き生きしていて、私は好きだ。このおやじは「昔風の官員髭を生やして、ぴんと跳ね上がつた尖を捻りながら」、百閒の顔を見て、こう言うのだ。
また、頭のおできを見て「万事嚥み込んだ」様子で、こんなことも言う。
この運送屋のくばったチラシの文面というのも出てくる。それが、いかにもその時代のその階層の人の文章らしくて、かわいいったらありゃあしない。
武藤康史さんによる巻末解説(『野上弥生子日記』を引用したもの)も面白かった。野上弥生子は、女の美徳とも言うべき種類のリアリズムで見ていて、百閒のことを「人生のクラウン」「お山の大将――それも自分の自由になるハンヰでの――を気取る方」と評している。たぶん当たっている、と思う。
【単行本】
【この書評が収録されている書籍】
内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』(ちくま文庫)もそんな一冊で、これは短いエッセー集なので、すぐに読んだ。
やっぱりおかしな人だわ、いや漱石はとか龍之介はとか言うんじゃなくて、百閒という人は。
「漱石先生臨終記」の中の、悲しみの描写に唸る。ちょっと奇妙な心の動き方だが、実際には悲しみというものはこんなふうにしてやってくるものだと思わせる、まったくリアルな描写である。ちょっと長いが引用してみる。
やつとお葬ひになつて、向うの式場から、鉦の音が聞こえて来る。私は煙草を土間に投げすてて、式場の方へ行つた。真中辺りに空いた席があつたので、そこに腰を掛けた。薄暗くて温かくて、身体の方方が伸び伸びする様で、連日の疲れでほつとした。お経の声を聞きながら、うすら眠い様だなと思ひかけた時、突然、その気持とは何の関係もなしに、腹の底から大きな何だか解らない生温かい塊りが押し上がつて来て、涙が一どきに流れ、咽喉の奥から変な声が飛び出して、人中でわめきそうになつた。
それで、慌てて場外に出て、入口の柱に凭(もた)れた。広場に向かつて、大きな口を開けて、わあわあと泣いた。涙が頬から胸に伝ひ、又足許にぽたぽたと落ちた。白けた広場が、池の様に水光りがした。
二十年この方、いろんな目に会つたけれども、こんな事を繰返した覚えはない。さうして、これから先も、もう一生涯さう云ふ事はなささうに思はれる。
こういう文章に触れるたび、私の頭にはフッと「飼い馴らされぬ感情という名のけだもの」という言葉が浮かぶ。私は百閒の何が好きかというと、その喜怒哀楽の動き方がけだもののようだからだと思う。首にクサリなどつけられず、野を疾(はし)る高貴なけだもの。
多くの人びとは自分を疑うこともなく笑ったり泣いたりしているが、しかし、その喜怒哀楽をよくよく見てみると、首根っ子にクサリをつけられて、「世間」という杭(くい)にしっかりつながれて、そのクサリの長さの範囲内をウロウロしているにすぎないように見える。あるいは、たづなをつけられた馬のように、「世間」という乗り手に操られて、行先を決められて突進しているだけにすぎないように見える。まあ、簡単に言ってしまえば「型にはまっている」「分別くさい」ということなんだけど。小難しく言うと「感情さえも管理されている」とか「制度化された感受性」ということなんだけど(当然そういうシステム中で成り立つ文学というのもあるわけだ。あって、いい。ただ私にはあんまり興味がないだけだ)。
結局、文学というものに何を期待しているか、何を求めて本を読むのか、というところで、好みは大きく分かれるのだと思うが、私は百閒のような、変な心の動き方をする人の文章を読むのが、うれしい。
この『私の「漱石」と「龍之介」』の中で一番百閒らしいと思ったのは、「掻痒記」と題された、頭におできができたときの話だ。
いくら掻(か)きむしってもかゆみがおさまらず、ひとに縦横無尽にひっぱたいて、掻き廻してもらうと「自分の頭が三角になる様で、私は痛快の感に堪へない」というところ。女中も金だらいで膝頭の大きなはれものを洗っていたのを知り、「家の中ぢゆうおできだらけになる様な、いやな気持がした」というところ。病院の看護婦がぴかぴか光る鋏(はさみ)で髪の毛を刈ったのだが、その刈り方が「非常に荒らつぽく、やり方が痛烈を極め、髪の毛を切つてゐるのだか、頭の地を剪み取つてゐるのだか、よく解らなかつた。それが大変私の気に入つて、もつと深く頭の皮を剝いでくれればいいと念じた」というところ。看護婦にぎゅうぎゅうに包帯を巻かれて、すっぽり白頭巾をかぶったようになったが、その巻き方が固くて「何だか首を上の方に引き上げられる様でもあり、又首だけが、ひとりでに高く登つて行く様な気持もして、上ずつた足取りで家に帰つて来た」というところ。
こういう、何と言うのかな――生理的、体感的な描写がとても繊細で的確で、面白い。
このあと、「本当に癒つてしまつた様な気になりたい」と思って、丸坊主になろうと、理髪店のはしごをする話も妙だ。
おできとは直接関係ないのだが、この「掻痒記」の前半にチラチラ出没する「掃除町の運送屋」のおやじのセリフが、生き生きしていて、私は好きだ。このおやじは「昔風の官員髭を生やして、ぴんと跳ね上がつた尖を捻りながら」、百閒の顔を見て、こう言うのだ。
旦那、遊んでてはいけませんや。そりや、今日遊んでゐられるちふな結構なこんだが、それじや済みますまい。
また、頭のおできを見て「万事嚥み込んだ」様子で、こんなことも言う。
だから云はないこんではない。なんにもしないで、ぶらぶらしてゐなさるから、そら、退屈するからつい悪遊びをする。旦那、そりやまあ、遊んでゐるうちは癒りませんや。
この運送屋のくばったチラシの文面というのも出てくる。それが、いかにもその時代のその階層の人の文章らしくて、かわいいったらありゃあしない。
引越の荷もつわ尾張屋にかぎる、おわしがやすくて第一しんせつです尾張屋には大工を置て引越の時にわ其大工が戸のいのかんのや又たな板を無料でなをしてくれる大家さんにたのんでもすぐには直らん尾張屋わ勉強です引越がをそいと其のばんにこまるなにほどとほくても午後二時までに荷物を尾張屋わ届けるから引越の為にあしたわやすむと云ふ事がありません全く尾張屋わ勉強です是非一度たのんでごらんなさい
武藤康史さんによる巻末解説(『野上弥生子日記』を引用したもの)も面白かった。野上弥生子は、女の美徳とも言うべき種類のリアリズムで見ていて、百閒のことを「人生のクラウン」「お山の大将――それも自分の自由になるハンヰでの――を気取る方」と評している。たぶん当たっている、と思う。
【単行本】
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初出メディア

毎日グラフ・アミューズ(終刊) 1997年1月8日号
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