書評

コンスタンティノス・カヴァフィス『カヴァフィス詩集』(岩波文庫)、マッシモ・カッチャーリ『ヨーロッパの地理哲学』(講談社選書メチエ)

  • 2025/07/15

凡人と賢人 失意と没落への自己認識

ロレンス・ダレルの大作『アレクサンドリア四重奏』は、地中海沿岸の国際都市アレクサンドリアを舞台とする華やかな愛欲の錯綜する様を描いた長編四部作。この小説の片隅に詩人カヴァフィスが登場する。詩人は19世紀末から20世紀前半に地味な小官吏として生きたギリシャ人だが、午前中の職務のせいで、自由を楽しむ時間に恵まれていたらしい。

カヴァフィスはアレクサンドリアに生まれ、ほとんどエジプトのこの地で暮らし生涯独身だったという。彼は個人としての感情にひたりながら、その反面、集団意識のひそむ古代人の資質がしみついており、それが歴史的な見方を支えていた。「もし詩人でなかったら自分は歴史家になっていただろう」と語っているほどだ。

カヴァフィスが目を向けるのはギリシャの過去、とくにアレクサンドリアの過去であるが、古代の出来事が常識であるかのように描写されている。たとえば、「クレオパトラの子供らを見せるためにアレクサンドリアの民が集められた。カエサリオーンとその弟たち、アレクサンドロスにプトレマイオス……」と歌えば、カエサルとの一子およびアントニウスとの二子があてこすられ、茶番劇が語られる。ついでに、カエサルを話題にする原題「三月のイデス」では、群衆のなかの男が手紙をたずさえて「これを今すぐお読み下さい。御身に重大なかかわりのあることです」と早口に言う場面がある。イデスは一か月のまんなか、三月なら十五日、カエサルが暗殺された日を忘れてはならない。

歴史そのものを生きても結果を知らないというのは皮肉であろう。だが、想像力を働かせれば、効果もある。西リビアから来た王子は、「何よりもかれは寡黙だった。そのせいで彼は深遠な思想の人と見なされた。そういう人は多くを語らないものだから。……実はただの平凡な、つまらぬ男に過ぎなかった。野蛮なギリシャ語を口にするようなへまで自分のよき印象を損なうまいといつも戦々恐々としていた」から、言いたいことにあふれていたのに。

ところで、統一国家のなかったギリシャ人は、各地に植民地を設けて拡散しがちだった。しかも、カヴァフィスには同性愛者というひけ目があった。夜ごと少年たちのたむろする曖昧宿に出かけていたという。博打で六十ポンドをかせいだ友人が来ると、二人で悪の館に行った。「寝室を一つ借り、高価な飲物を買い、また飲んだ。朝の四時に近い頃、その高価な飲物を空にして、二人は幸福な愛に身をまかせた」という。さらに、詩人は老いるにつれ、官能にあふれた青春の日々を懐かしむ。「時おりは夜戻ってきてわたしに憑(つ)いておくれ。唇と肌が思い出す時に……」と臆面もない。

カヴァフィスという詩人には、自分たちの資質に期待しても、結局はそうはならないという失意感が流れている。それは凡人の哲学ともいえるのではないだろうか。

八十年ほど下るが、戦後イタリアにも巨大な知性をそなえた思想家がいる。哲人マッシモ・カッチャーリは、欧州がいかにして自らを「ヨーロッパ」と同定するようになったのかの解読を試みる。しかも、中世・近代・現代を論じても、大半は古典古代のテクストに準拠しており、ギリシャの詩人とイタリアの哲人が奇妙に重なって見えてくる。

ところが、地理哲学の用語からすれば、「詩人とはヨーロッパをアジアから永遠に切り離す不倶戴天の敵のことである」となるらしい。そもそも、多くの島々が浮かぶエーゲ海とイオニアは、太古から途絶えなくつづいていた攻撃と復讐あるいは暴虐の有為転変があっても、オリエント(東方)とオクシデント(西方)との敵対関係などありえなかった。ペルシア帝国をとりあげたヘロドトスにおいて初めて、海の向こう側に本物のアジアが形姿され、分裂の問題が浮上したという。しかし、その四十年前に、アイスキュロスの悲劇『ペルシア人たち』が分裂ならぬ区別の繋がりという筋書きが見えていたらしい。

今日、ヨーロッパの知性は世界を独占しているかのように見える人々がいる。だが、それはとてつもない錯覚であり、今やどんなプロジェクトも形をなさず、侵犯すべき境界も存在せず、あらゆる領域的一体性も崩れ去ってしまった。もはやヨーロッパは没落を怖れており、それを外から降りかかってきた運命と受けとめている。ヨーロッパに下された決断は、自分自身が没落しつつあり、没落を欲さざるをえないとの自己認識であるのだ。ここには賢人の哲学が息づいているかのようだ。

古典古代という原点に立ち返って現今を考える。卓越した詩人と哲人ならではの教唆には頭が下がる。

カヴァフィス詩集 / カヴァフィス
カヴァフィス詩集
  • 著者:カヴァフィス
  • 翻訳:池澤 夏樹
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(480ページ)
  • 発売日:2024-12-17
  • ISBN-10:4003770153
  • ISBN-13:978-4003770153
内容紹介:
アレクサンドリアに生きた孤高のギリシャ語詩人、コンスタンティノス・カヴァフィス(一八六三―一九三三)。生前広く公刊されることのなかったその詩の大半は、歴史を題材にアイロニーの色調でうたうもの、あるいは同性との恋と官能を追憶としてよむものであった。訳者が長い年月をかけて訳出した全一五四詩を収録。

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ヨーロッパの地理哲学 / マッシモ・カッチャーリ
ヨーロッパの地理哲学
  • 著者:マッシモ・カッチャーリ
  • 翻訳:上村 忠男
  • 出版社:講談社
  • 装丁:単行本(288ページ)
  • 発売日:2025-01-16
  • ISBN-10:4065381606
  • ISBN-13:978-4065381601
内容紹介:
そして没落していく者としてのみ、到来する者となるだろう――。アガンベン、エーコ、ネグリ、エスポジト……イタリアの思想家が世界を席巻するなか、その隆盛を牽引してきた最も重要な哲学者で… もっと読む
そして没落していく者としてのみ、到来する者となるだろう――。

アガンベン、エーコ、ネグリ、エスポジト……イタリアの思想家が世界を席巻するなか、その隆盛を牽引してきた最も重要な哲学者でありながら、日本ではいまだその全容を知られていない、マッシモ・カッチャーリ(1944年生)。クザーヌスやブルーノなどの異端的な思想を愛し、ニーチェに基づく「否定の思考」を信条とする著者が耳を傾けてきた「希望に抗する希望の声」とは、いかなる声なのか。一筋縄ではいかない知性に裏打ちされたヨーロッパ論にして共同体論。

本書は、ヨーロッパがいかにして自らを「ヨーロッパ」として同定するに至ったかを、古典古代のテクストに準拠しつつ、中世から近代、そしてさらにはシモーヌ・ヴェイユやカール・シュミットなど現代において提出されてきたさまざまなヨーロッパ像と突き合わせながら丹念に読み解いていく。
エピローグにおいて、カッチャーリは「ヨーロッパの唯一の未来」を示唆する。冷戦終結後、ヨーロッパの統合と拡大が一気に進むなか、EU誕生の翌年にあたる1994年に本書は刊行された。その後、国際情勢は大きく変動し、いまやヨーロッパはロシアの脅威にさらされる一方で、中国をはじめとする新たな国家の台頭をうけ、各国でこれまでになく右派勢力が拡大し、EUも大きく揺らいでいる。40年の時を経た今、本書の対となる書物『アルキペラゴス(多島海)』とあわせてカッチャーリが示したヨーロッパ像、そしてヨーロッパの未来は、分かりやすくはないからこそ、そこに開かれる可能性を示唆している。イタリアが、そしてヨーロッパが誇る知性が描きだすヨーロッパとは――。

【本書の内容】
第1章 ヨーロッパの地理哲学
第2章 戦争と海
第3章 英雄たち
第4章 歓迎されざる客
第5章 不在の祖国

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毎日新聞

毎日新聞 2025年3月1日

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