形成に関わる前代未聞の「アンソロジー」
日本語のネイティヴスピーカーは、「漢字仮名交じり文」をもつ自分たちの言語が相当入り組んだ造りであることは自覚している。とはいえ、どんな成立過程を経てこうした造りになったのかには、意外と無関心のように思う。『日本語のために』は、祝詞、漢詩、漢文、仏教典、キリスト教典、琉球語・アイヌ語の文献、五十音図、シェイクスピアの邦訳、大日本帝国憲法、日本国憲法など、日本語の形成に深く関わる、あるいは、その時代の日本語の特徴を顕著に表す文章、文書のサンプルを広範に採集し解説を加えた前代未聞の「アンソロジー」である。かつて国語教育を鋭く批判した丸谷才一の『日本語のために』(1974年刊)を意識したタイトルだろう。中立的な見本収集では当然なく、編纂(へんさん)の仕方は高度に批評的だ。本書中の文章のほとんどが、翻訳を通して/に伴って作られたものであることは、言うまでもない。日本に二度の「大翻訳時代」があるなら、それは奈良・平安と明治・大正時代。前者の頃には、中国から漢字、漢文が、後者の頃には、西洋の言語が輸入され、翻訳を通して日本語化したが、その際には、アクロバティックな工夫が色々となされた。たとえば、漢字に二種類の読み方をあたえたこと。漢字とは文字であり、一つ一つが「単語」でもあるが、「犬」に「ケン」という中国風の読み方のほか、「イヌ」というやまとことばでの読みも付けた。この大胆な発案を、本書で池澤夏樹は「dogをイヌと発音すること」と同じぐらい「とんでもない飛躍」だと表現する。ここに日本語の二重、三重構造化が始まった。日本語にとって中国語は英語ほど離れた言語であるにも拘(かか)わらず、「漢字に訓読を当て、返り点などの規則を整備すると漢文がそのまま日本語として読める」「自動翻訳装置」をこしらえたのだ。
幕末から明治にかけての日本人は日本語のこうした重層性を楽々と使いこなして、じつに豊かな言語生活を送っていたと、永川玲二(ながかわれいじ)は「意味とひびき」で指摘する(最終章「日本語の性格」)。天下国家の問題なら漢文脈、恋愛でもまじめなものなら短歌、粋人の浮気ていどなら都々逸と、さまざまな観念、イメージ、情緒、語法、リズム、主題などが精妙なマナリズムによって整理されていたから、表現に迷うことがなかった。一方、役割分担がはっきりしているぶん、論理的で生硬な文章になるか、情緒に流れるかのどちらかで、両者の融和を図りにくくもある(が、その壁を突き崩す姿勢だったのが小林秀雄との指摘もある)。
音韻と表記が扱われる第七章でも、松岡正剛による「馬渕和夫『五十音図の話』について」という抜群に明晰(めいせき)な一文が引かれ、再び日本語の「ボーカリゼーション」について考察されているのがありがたい。その簡潔な解説によれば、仏教公伝の後しばらく経文は漢訳で読まれていたが、空海の入唐以降、四つのことが同時に起きた――仮名の登場、漢訳の原語であるサンスクリットやパーリ語の研究、公用漢字の意味の把握、和歌と漢詩の比較。これらが一挙に進み、日本語は後にも先にもない劇的な過程を経験したことがよくわかるのだ。
アイヌ語を扱う重要な章にも、繊細な批評性が張り巡らされている。たとえば、知里幸惠(ちりゆきえ)訳(自己翻訳)の『アイヌ神謡集』を岩波文庫からは採らず、北道(きたみち)邦彦による注解つきの版(2003年)を採用。北道とは、陰の共作者金田一京助によって長らく門外不出となっていた創作記録「知里幸惠ノート」に基づく『ノート版 アイヌ神謡集』(1999年)を編集した人である。また、樺太アイヌ山辺安之助の『あいぬ物語』は、本文抜粋四ページに対して、七ページに亘(わた)る金田一の序文が丸ごと引かれる。それによって、山辺がアイヌ語より得意な日本語でアイヌの生活をいったん語り、それを編集した日本語文を、再び彼がアイヌ語に自己翻訳/還元訳するという、何がオリジナルで何が翻訳なのかわからない事態に陥った共作の過程も明らかになる。
本書には現代語訳も多数含まれるが、刺激的な試みが満載だ。一例だけ挙げれば、「終戦の詔書」の現代語訳は高橋源一郎が担当し、天皇にあたえられた語彙(ごい)と感情の乖離(かいり)について考える。その結果、自身が執筆中の小説で架空の昭和天皇が発表することになる口語の「終戦の詔書」を訳文として挿し入れ、「『翻訳』には、そんな機能、いや役割もあるのではないか」と問いかける。
一方、第九章「政治の言葉」には、日本語の散文が未発達で、論理的、実用的、公的、抽象的な記述に向かないのは、明治開国時に文体を急拵(ごしら)えしたのが、小説家たちだったからだと説く、丸谷才一の「文章論的憲法論」が。自身も小説家の丸谷がこの論を書いたのが、戦後三十年の頃だ。戦後七十年のいま、日本語と翻訳と小説との関係は、どのように変化しているだろうか?