ときとして私には、何かしら疫病のようなものが、人類をもっともよく特徴づけている能力、すなわち言葉を用いる能力を駄目にしているのではないかと思われることがあります。言葉の伝染病といったものでして、その徴候は識別的な機能や端的さの喪失、あるいはまた表現をおしなべてもっとも一般的な、没個性的で、抽象的な決まり文句に均一化させてしまい、その意味を稀薄にして、語と語が新しい状況に出合うときに発する火花をいっさい消し去ってしまおうとする一種の無意識的・機械的な振舞いとして現われています。
そして、その疫病はさらに被害を深刻に広げているように、思われるのだ。わたしは呟く。ブッシュ大統領のスピーチを聞いて「ありえない」と。わたしは笑う。友人の滑稽な失敗談を聞いて「ありえない」と。わたしの言葉は「ありえない」に冒されつつある。
気晴らしに、ある売れ行きのよい娯楽小説を開く。すると、そこにもまた疫病が蔓延していることに気づき、「ありえない」と愕然とする。たった数行の間に同じ言葉が五回も使用され、主語は述語を見失い、「て・に・を・は」は脱臼をおこし、どんな名医の腕をもってしてももはや助ける術はない。ひょっとすると、自分が今読んでいるのはエンターテインメントではなく実験小説なのではないか――「ありえない」――と思われるほど症状は深刻だ。
『ことばのたくらみ』の編者・池澤夏樹は、まえがきにあたる場所で、この本を「批評の長歌に対する反歌、バラードに対するエンヴォイとして」位置づけ、執筆依頼した15人(本人を含む)の作家そして詩人には、「『ことば』を普段以上に意識していただきたい」と注文をつけたと明かしている。つまり、ここには疫病に冒されまいと抵抗する15様の試みがあるのだろう。そんな見当をつけて本を開いてみた。
トランスレーションの往復が生む異化のおかしみをさらりと示す多和田葉子。ある中編小説の七パターンの書き出しを提示することで、物語が生起する瞬間の無限性を読者に告げる平出隆。物語における屈託のない語りと、ユーモアの湧出と、エクリチュールの軽業を披露する村田喜代子。「甘美に忘れ去る」ことを甘美に思い出させる文体の魔術師・金井美恵子。言葉によって世界に不在を穿とうとする松浦寿輝。言葉が持つ原初の善良な力への信頼を小さな物語にこめた池澤夏樹。全編書き下ろしのアンソロジーなのだから、人によって作品の好き嫌いが生まれるのは仕方ないし、なかにはぬるい作品も混じってもいるし、この一冊で疫病蔓延をくい止められるとも思えないのだが、しかし、わたしは打たれたのである、15人の作家の誠実な身振りに。少し取り戻せたのである、言葉への期待を。覚えたのである、小説に「棒で突っつくのではなく、掌で触れる」喜びを。
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