解説
『私の恋愛教室』(筑摩書房)
「恋愛はするものであって語るものではありません」
決して読みやすい本ではない。スラスラスイスイ読み流せる本ではない。私なぞこうして図々しく「解説」を引き受けながら、実のところ、著者が言いたかったことの半分くらいしかわかっていないんじゃないかと不安に思っているのだ。『私の恋愛教室』というのはまったく正しいタイトルであって、私は読みながら福田恆存先生のすばらしく手強い面白さにあふれた講義を受けている気分だった。ナミの面白さではなく、手強い面白さ。「今はまだよくわからないけれど、とてもたいせつなことを言っているんだなということだけはよくわかる。いつかきっと感動を持ってわかる時がくる」という感触が確かにあって、読みながら傍線や「?」マークや「!」マークを書き込まずにはいられないのだった。
この本に限らず福田恆存の著作はどれも、私をそんなふうに真面目な一学徒といった気分にさせてくれる。たとえ実際には寝そべって読んでいるにしても、気持のうえではシャキッと背筋を伸ばして読んでいる。
さて。タイトルが『私の恋愛教室』だ。福田恆存を「保守派の論客」とばかり思い込んでいた人(特に男の人)にとっては、これは驚愕の一冊なんじゃないか? この本の中で福田恆存がたびたびこんなふうに書いていることを知ったら、なおさら――。
恋愛のことなど女子供に委せておけという颯爽たる男らしさ、あるいはもっともらしい大人ぶりのうちに、ぼくの嗅覚はなにかうさんくさいものを嗅ぎつけるのであります。
現代の良識家たちが女性の問題を論ずるさいに見せる不様な態たらくは、明治の先輩たちが恋愛を女子供にまかせてしまったからなのにほかなりません。
ぼくは恋愛において美しくなりえぬ人間が、その他のどんな場所においてきれいごとを示そうとも、そのひとをぜったいに信用しまいと覚悟をきめているのです。
どうですか? 大正元年生まれの「保守派の論客」で、戦後民主主義批判や“進歩的文化人”批判で鳴らした人が、こんな発言をしているのだ。恋愛(性愛、性欲、情欲と言ってもいい)は生の根源的な問題なのだから、ここをないがしろにした思想はダメだと言い切っているのだ。
「やっぱり福田恆存は“オヤジ”じゃないな。一線を画しているな」と私は呟く。「女子供」が嘲笑的に使う“オヤジ”という言葉には複雑多様なニュアンスがあるけれど、基本的には「恋愛や性というものを粗雑に考えている男」を指していると私は思っている。私はどちらかというと保守的な人間だが、政治思想における「保守派」と「革新派」を較べると、「保守派」のほうに“オヤジ”棲息率が高いように思われるのは、何とも残念なことである(とはいえ、「革新派」のほうだって一皮むけば“オヤジ”という人も多そうだ。保守派は直球で、革新派は変化球――その程度の違いのような気もする)。
福田恆存は生涯を通して「日本人の心のよりどころ」について考え抜いた。キリスト教(福田恆存流に言うならクリスト教)のようなきびしく倫理的な宗教を持たない日本人は何をよりどころに善悪や正邪の判断をしたらいいのか。この『私の恋愛教室』もまた、そういうモチーフから全然はずれていない。むしろまんなかにあるんじゃないか、っていうくらい。
福田恆存はまず、恋愛は「明治の産物です」と言う。過去(明治以前)の日本においては
恋愛は倫理とかかわりのない場所に成立した。
われわれの祖先は情慾を美化することによって、その深淵にたいして完全に目つぶしされていたといえよう。かれらは情慾の処理を、人間の精神にではなく、その美意識にのみまかせきってしまった。したがって、かれらの美意識には、倫理感の関与する余地がなかったのである。過去の日本人は、美意識を倫理的に陶冶することを知らず、むしろ倫理感からの解放に美意識の洗練を期待した。
何と鮮やかな指摘じゃないか。王朝文学あるいは江戸文学に興味のある人だったら「なるほどー」とスンナリ腑に落ちることだろう。
明治になって、そんな国に西欧文化がドッと流れ込んできた。西欧文化の中核にはキリスト教が厳然として存在していた。そして福田恆存はこう言う。「厳密にいえば、クリスト教的恋愛論以外に恋愛論は成立しえない」!
その根拠を緻密に論証してゆくのだが……悲しいかな、私の頭脳のほうは緻密じゃあない。キリスト教という一大思想の巧妙な構造がもうひとつクリアーには呑み込めない。
けれど、「クリスト教的恋愛論以外に恋愛論は成立しえない」というのは、きっと正しい――と直観的に思う。
明治期の文学者たちが「恋愛」という新奇な概念にいかに対応したか。その受容と反発の様子が北村透谷、幸田露伴、二葉亭四迷の作品でたどられてゆく(二葉亭の小説『はきちがへ』に私はわくわくして笑った。この作品が不潔さから救われているのは、それが戯画化されているからだという指摘にも注目したい。福田恆存はジェームズ・サーバーを愛した人だけあって、笑いのセンスも結構なのです)。
さて、そこから、いよいよD・H・ロレンスの恋愛観に入ってゆく。
ロレンスは日本では『チャタレイ夫人の恋人』の作者として有名で、一九五〇年には伊藤整が翻訳したものが「わいせつ文書」にあたるとして発禁処分を受けた。その裁判は「チャタレイ裁判」と呼ばれ、世間の注目を浴びた。福田恆存は大学の卒論は「D・H・ロレンスに於ける倫理の問題」だったというほど、早くからロレンスに傾倒していた。裁判には特別弁護人として出廷している。この『私の恋愛教室』に収録されたエッセーは一九四七年から一九五九年の間に雑誌に掲載されたものだ。「チャタレイ裁判」の時期に集中しているわけではない。それでも裁判によって、自分の中のロレンス的思考が、いっそう踏み固められていったのではないかと思う。
福田恆存はロレンスの遺作となった『アポカリプス論』を高く評価し、みずから翻訳もした。「性の科学」、「性の露出化」、「現代人は愛しうるか」、「ロレンスの恋愛観」は、そういう意味で、この本の最大の読みどころになっている。やっぱり、キリスト教の思想体系のダイナミズムに通じていないとわかりにくいところがあるけれど、ロレンスが危惧し苦悩したことは、現代ではますます切実でリアルな問題になっていると思う。
私が特に面白く思ったのは、「ロレンスは性の秘密主義を攻撃したが、性の神秘については、あくまで敬虔な態度を持していた。そして性教育にたいして、またその根柢をなす性に関する科学的な意味づけにたいして、つねに否定的であった」ということだ。
それは福田恆存のこんな言葉とも重なる。
性は、闇から闇に葬らるべき醜い欲望ではないが、そうかといって、すべてを明るみに露出してしかるべきものではない。それは闇のなかにおいて明徹に理解されなければならない問題である。光のなかにもちだされたとき、それはかえって理解しがたいものと化する。現代人が性について理解しようとこころみるとき、往々にしてその過ちを犯す。
福田恆存は「ロレンスほど誤解されている作家はありません」と書いているが、福田恆存もまた同様だったのではないか。二人に共通するのは、「AでもなくBでもない」「AでありBでもある」といった立体的で動的な思考法なのだけれど、世の中には「AでなかったらB」「AであったらBではない」といった、平面的で固定的な理解の仕方をする人が呆れるほど多いのだ。ロレンスばかりでなく福田恆存も孤独だったかもしれない。
さて、私がこの本の中で最も好きなのは、終盤に出てくる「恋愛はするものであって語るものではありません」という言葉だ。実は私もこれと似たようなことを書いたことがある。「恋愛はするものであって、読むものじゃあない」と。決して福田恆存のマネをしたわけじゃあない。その頃は『私の恋愛教室』は読んでいなかった。と、つい自慢。
「恋愛はするものであって語るものではありません」というのは、おそらく、この本の出発点であり、ゴールでもあっただろう。この言葉に何かピンとくるものを感じた人なら、きっと、この『私の恋愛教室』の貴重さを十分察していただけたと思う。
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