例を見ぬ委曲を尽くした浩瀚な評伝
比類のない作品を遡及的に指示するエピソードの数々
二人のイギリス人によるベルメール評伝である。全十章のうち第三章「ベルメールとシュルレアリスム 1933-1938」と第七章「イマージュの解剖学 1939-1949」のいささか思弁的な二章だけがロバート・ショートによって書かれたもののようだが、いずれにせよこれほど委曲を尽くした浩瀚な評伝は例を見ない。「訳者解説」にもあるように、ベルメール本人と関係者の証言をもあまねく収集して「現在のところ唯一の総括的なベルメール伝」たりえていることは間違いない。一九〇二年、ベルメールはポーランド国境沿いのドイツのカトヴィッツに生を享けた。その誕生からパリにおける一九七五年の死にいたるまで、本書はベルメールの人生を何年かごとに区切りながらその委細を追う。とはいえ、その区切りは、たとえば第一章「ドイツ 1902-1933」、第二章「人形 1933-1934」とあるように、長さが一定しているわけではない。一九三四年に作品集『人形』を出すまでの人生がほとんどすべて第一章に収められ、自覚的に人形作家として立つそれ以降の人生が数年ごとにあとの諸章に配されているという具合である。
暴君的、抑圧的、権威主義的な技師の父親に反撥し、対するに母親に依存し、母親の妹の娘ウルスラに象徴される少女的なものに執着し、早くから少女たちをドローイングし続け、ネイティヴ・アメリカンの小道具とか変装道具とかビー玉とか万華鏡などをコレクトしていたとかいった、ある程度知られているだろうベルメールの若き日のエピソードはもとより、父親への離反を決定的なものにするようにベルリン工科大学の学業を中途で放棄し、ベルリン・ダダのグロッス、蝋人形作家のロッテ・プリッツェルに出会い、ラインハルト演出の『ホフマン物語』に衝撃を受け、そしてパリでブルトンらシュルレアリストたちや詩人エリュアールと接触し、サドやボードレールに傾倒し、バタイユの『マダム・エドワルダ』の挿絵版画を制作し、戦争中にエクス=アン=プロヴァンスのミル収容所の煉瓦造りの独房に七カ月間収容され、あるいはウニカ・チュルンと出会い十六年間ともに暮らしたといった出来事が本書には仔細に記述されている。まさに評伝の名にふさわしい。
だが本当に興味深いのは、たとえば収容所の煉瓦の壁が、ベルメールの繊細巧緻なドローイングに登場する部屋のみならず女人形の身体や顔にまで再現=表象されているという事実だろう。つまりもろもろのエピソードは、それらが彼の比類のない作品を遡及的に指示するかぎりにおいて意味あるものになっているわけだ。数多のエピソードの担い手としての「作家」像は、諸作品がそれに向かって遡行するところの観念的な「作者」像によって支えられているといってもいい。つまるところ問題は作品そのものである。
その意味で、私の興味はいわゆる「球体関節」制作をめぐる具体的な経緯と議論におのずから収斂するほかはなかった。というのも、この国で「球体関節」という概念がなにか奇妙な誤解を受けていると思わざるをえないからだ。それがたんに人体のもとからある関節を球体にして可動的にするなどという卑小な問題ではないことは、「球体関節についての覚書」を含むベルメール自身の著作『イマージュの解剖学』に目を通せば明らかなのだが、わが国の人形作家たちのうちには、アナグラムのように少女の身体の性的部位を再構成するという彼の「肉体的無意識」の議論を少しも知らずに嬉々として「球体関節人形」の制作にいそしんでいる者がいる。
澁澤龍彦を通してベルメールを知った四谷シモンが人形作家に転じたところから日本の人形史は新たな展開を迎えるが、おそらくは一九三四年の作品集から同年に雑誌『ミノトール』に転載された人形写真がシュルレアリストたちと同じように彼らに衝撃を与えたものと思われる。シモンの人形は、もとよりベルメールの異様な過激さとは無縁だが、そのありようはやはり異なった位相におけるベルメール的な問題意識を感じさせるといってもいい。その彼の言葉が本書の帯に踊っているが、しかしいずれにせよベルメール―澁澤龍彦―四谷シモン―球体関節人形という観念連合からはそろそろ解放されなければならないと私はあらためて思ったのだった。
訳文は格調高く「訳者解説」も的確である。瑕瑾というなら、校正ミスか否かは知らず、アルチンボルドの名をジョゼッぺと記しているところだけであろう。これはもとよりジュゼッペが正しい。いずれにせよベルメール伝の決定版ともいうべき本書の翻訳の労を多としたい。