対談・鼎談

秋岡 芳夫『いいものほしいもの』(新潮社)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2023/09/24
いいもの ほしいもの / 秋岡 芳夫
いいもの ほしいもの
  • 著者:秋岡 芳夫
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(201ページ)
  • 発売日:1984-01-01
  • ISBN-10:4103332026
  • ISBN-13:978-4103332022

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丸谷 工芸デザイナーの書いた、日常生活で使う道具や器についての本です。

このあいだ新聞で読んだことですが、東京都の学校給食では、今でもあの評判の悪い先割れスプーンが主流を占めていまして、さらに食器の材質は半分がアルミやステンレス、残りは安全性が心配されるポリプロピレン、メラミン合成樹脂なんだそうです。

ところが、この『いいもの ほしいもの』の中に、岩手県大野村の学校給食器セットが出ています。全部で六つでして、まず煮物やパンを入れる楕円と丸型の木皿。大野村の松の木を使ったもので白木なんですが、樹脂処理をしてあるので、ソースのシミが残らない。それから濃く着色した木のお椀、これにはカレーもいれることができます。白木の木皿に入れると黄色くなるんですね。それから御飯を入れる焼物の碗、大野村の近くに久慈(くじ)という町があって、昔から小久慈焼で有名だったのですが、その小久慈焼の人たちに作ってもらったものです。そして、非常にデザインのいい白木の箸置きと黒い木の箸。この箸置きはバター入れにも使えます。

学校給食の箸はケンカの凶器になるから危険だといって学校で嫌われるそうですが、丁寧に箸置きを置いて、生徒をお客さま扱いにすれば、凶器には使わないというのも大野村の考え方なんですね。このセットがなかなか趣味のいいもので、私は写真で見てウットリしました。事実、村のお母さんたちもほしがっているそうです。

これを発注したのは村の教育委員会ですが、作ったのは、村の「裏作工芸グループ」といって、このグループの一人の床屋さんが、冬になると千五百人の村の男たちがみんな出稼ぎに行くので開店休業になって困ってしまい、村の木工芸教室に二年間通って実技を習い、床屋の店に木工ロクロの機械を据えて始めたんです。グループには、その床屋さんをはじめ、出稼ぎ大工、トンネル工事工、農家の人たちなどがメンバーになっています。

私はこれを読みまして、地方の産業の育成という意味でも、子供たちに機能的で美しい生活用品を与え、そのことによって感覚を養うという意味でも、素晴しい態度だと感心して、大野村の教育委員会に敬意を表したくなりました。

こういう身のまわりの工芸のいいものを一つ一つ取りあげて紹介し、それがどういう具合に優れているかを説明することで、工芸デザインの本質を具体的に解説し、さらにその品物を買いたい人は、どこへ注文すればいいかまで書き添えてある本です。

福井の汁椀とか、青森の入子(いれこ)になっている六つ組の弁当箱とか、隠れた名品がいろいろ紹介してあるのはもちろん、身体障害者用の生活用具もあります。著者が自分で作って近所の子供たちと遊ぶ竹とんぼ、なんてものもあります。

しかし、個々の魅力もさることながら、汁椀は手にしっくりなじむのがいいとか、福井の山本さんという塗師が塗ったお椀は、今なら一客一万円は越すだろうけれども、三年間毎日使ったから、一日九円で割箸より安いとか、(笑)あるいは家庭における女の人のための椅子は、ハイヒールを履いていないのだから、と、五センチ短く切ったところが、奥さんも大喜びだったけれども、男である著者もかけてみるとずっと楽だった。椅子は「低は高を兼ねる」と分った、とか、そういう清新なものの考え方を教えてもらって、ずいぶん頭を刺激される、愉しい本でした。

木村 最初から最後まで「いいなァ」「いいなァ」と言いっぱなしでした。(笑)「はじめに」のところで〈工夫しながらの「健康な手づくり」には、夜更けまで熱中してしまう魅力があります〉と書いてありますが、これは、われわれがいま一番求めていることですね。既製品をただ買って使うのではなく、頭と手を動かして、自分なりの生活環境をつくりたいと、現代人は切望しているわけです。

そして秋岡さんは「触覚の美」ということを唱えておられる。つまり美しさを手で触り、肌で感じるということです。私は大いに共感し、ルソーの『エミール』を思い出しました。目は一番遠くまで届くために、往々にして判断が誤りがちである。目による判断と、一番近くまでしか及ばない手による判断が一致した時、はじめてその判断は正確になりうる……。

丸谷 うーん、うまいこと言うもんだなあ。(笑)

木村 まさにその手による判断と目による判断がこの本では一つに融けあっている点が魅力でした。

山崎 現代という時代は、二つの新しい傾向を見せているわけです。一つは、人びとの趣味が多様化して、一品当りの生産量が少なく、種類の多い商品が求められている。もう一つは、かつての効率主義が否定され、使うにしろ、作るにしろ、結果より過程を愉しむようになった。この二つの傾向の重なるところに生まれたのが、秋岡さんのいう、新しいクラフトマンシップだと思うんです。

実は、現代最大の問題は、人びとが自分で何が欲しいかわからなくなっているということで、テレビが欲しい、自動車が欲しいという時代はすぎて、さて次に欲しいものは? というと、みんな困っている。その中で、この人が、趣味のリーダーとして、いま欲しいのはこういうものだと、声を大にして主張されたのは立派なことですね。

なおかつ、非常にいいのは、デザイナーとクラフトマン、つまり設計する人と作る人が二人ではだめで、一人であるべきだという。そして、その理由を、〈木を買う時にも、製材・木取りの段階でも、もちろんロクロを廻しながらもデザインをやめない。彼のデザインが終了するのは、モノが出来あがったその瞬間〉という言い方で、秋岡さんは説明している。つまり、デザイナーが自分の意図なり趣味なりを発見するのは、実際に物を作りながらである、という思想ですね。これは今までの産業主義、つまり欲しいものが予め決まっていて、それを青写真にして、機械で作るという考えに、対立するものです。

私はこの人の考えに、基本的に大賛成です。おまけに断片的にも、面白い着想があって、たとえば伊勢の遷宮が二十年ごとなのは、職人が二十年で世代交替していくためだ。祖父、父、孫の三代が一緒に仕事をすることで、古代の工芸技術を伝えてきたのだろうというのは、面白い。また日本の包丁に二種類あって、四角い包丁を使う地域は四角い中華包丁の中国と、先の尖った包丁を使うところは韓国と、同じ食文化圏に属するのだろうか、といった眼のつけどころは、結論として正しいかどうか知りませんが、魅力的でした。

木村 著者は〈明治の質に驚きます〉と書いています。明治時代の商家が使いこんだ手桶や樽は、いまだに水一滴も漏れないというんですね。実は黒船でやってきたペリーも、このことに驚いてまして、「もし日本の手職人の技術と、われわれ欧米工業文明の成果が結びついたなら、日本は遠からずしてわれわれの強力な競争相手になるだろう」と、百年後の今日を予見した文章を残しているんです。そういう幕末明治の職人芸の高水準を、もういっぺん興(おこ)そうと著者はしている。いってみれば、手の技術のルネサンスを図っているんですね。

丸谷 先ほど山崎さんは、再三、趣味とおっしゃった。第二次大戦後の日本は以前に比べずっと住み易い、いい国になったと思うんです。しかし一つ不満がある。趣味――と言ってもホビイではなく、美的情操としてのテイストが強調されなくなったことです。戦後の日本は、何か荒寥(こうりょう)として貧しい感じがします。

しかし、昔の形のままの趣味ってものはもうありえない。これからは、各々で美的情操をつくってゆかなきゃならない。小林秀雄のように、ただ昔の職人はよかったと言うだけでは、前向きの姿勢ではないと思うんです。

この本には、〈現代の手づくりの成否は、機械を手道具のように使いこなせるかどうかにかかっているようです〉とある。新しい職人芸がどうあるべきかを、現代文明の真只中で考えている作者の姿勢がここに表れてますね。

木村 そうですね。六〇年代は作る側に主体がありました。たとえばグッドデザインの椅子は、作る側にとってのグッドデザインであっても、坐る側には必ずしもそうではなかった。端っこに腰かけるとひっくり返ったりする。(笑)ところがいまは使う側に主体があり、椅子を自分なりに自由に、楽しく使いこなしたい。椅子の上であぐらもかきたい。それが決して贅沢ではない時代にきている。秋岡さんはそういう、あぐらのかける椅子を作っていらっしゃる。

山崎 六〇年代は欲望の時代だった。欲望というのは普遍的なもので、テレビが欲しい、自動車が欲しいと簡単に説明できるし、生産者も効率よく商品を供給できた。したがって生産者主導の社会だったわけです。ところがいまは、欲望ではなく好みの時代なんです。好みというのは千差万別で、生産者の側から予測することは難しい。個人の時代、消費者の時代になった、というのが私の考えです。

その認識では秋岡さんと一致するんですが、ただ秋岡さんは、多品種少量主義がクラフトマンシップの生命で、工場では多品種少量生産は無理だと言ってらっしゃるところがある。これは間違いだと思います。というのはエレクトロニクスという妙なものがでてきて、一品ずつ違う製品を機械が作り出す時代が、まもなく来るからです。

ですから、クラフトマンシップの本質は、そこにはなく、先ほども引用したように、素材と取りくみながらアイデアを作り上げていく、そのプロセスにこそ求められるべきだと思います。

ついでに批評すると、私はこの人の文体に抵抗を感じるんです。「です、ます」調は結構なんですが、どうも、ものの分らない子供に大人が言い聞かせる式の「です、ます」調だなという気が若干する。

丸谷 やはり、一種の啓蒙主義的使命感があって、そのせいでこういう文体が出るんでしょうね。しかし、素人にしてはいい文章ですよ。

山崎 しかし、この人は評論家であって、決して素人ではありません。ある語り慣れた癖のようなものを感じませんか?

丸谷 うん、それはありますけどね。でも、物事が明確に伝わるでしょう。

山崎 もう一つ不満をいうと、この中でハレ(晴)とケ(褻)に触れてあり、いいデザインのものはケの道具であっても、ハレにもひきたつものだと書いてありますね。ハレについての着目があることは凡百のクラフト・デザイナーにはないことで、多とします。ただやはり本の全体としては、椅子はただただ坐りやすいものであるべきだ、という姿勢で書かれている。

丸谷 おっしゃる通り、この人の考えはケが中心であって、ハレの器にはあまり関心はないようですね。

山崎 ところが日本の職人は、使いにくくて、手入れに手数がかかるけれども、ハレの器として気品があり、緊張感のあるものをも作ってきたわけですね。そういう面にも目の配りが必要だったんじゃないでしょうか。

木村 その点についてはちょっと異論があります。現代はハレを追求する時代ではなく、ケがハレになり、むしろハレがなくなりつつある時代なんですね。昔は一年に一度、一生に一度のハレを夢みて、泥まみれのケの生活を生きてきた。ところが、いまは日常性の質を芸術の領域にまで最高に高めることが私たちの願いです。

山崎 それは分ります。つまりケの生活の水準が上がったということですね。それこそ既製服であり、レトルト食品であり、テレビ一人一台ということだった。それがここへきて、一種の飽和状態に達したと思うんです。

木村 ええ、隣がピアノを買ったからうちもピアノをという時代は終り、どのようにしてめいめいがピアノを愉しむかが大事になってきたわけですね。

山崎 普遍化から特化の時代になってきた。だからこそそこで新たなハレが出てくると思うんです。つまり、特化して、かつ他人にないものを求めようということになると、健康にいい程度のスポーツ、楽しい程度の学問ではだめだ。ちょっとつらい思いをしたり、威儀を正したりする。そういう部分へ、人びとの関心が向うんじゃないでしょうか。

木村 それはその通りですね。で、秋岡さんは伝統的にハレとケをふまえたうえで、新しい総合を求めている、という意味で、私はやはり、この本を支持します。(笑)

山崎 私も基本的には立派だと思っているんです。(笑)著者自身、牛乳を飲むグラスでウィスキーを飲んでもらっては困るといっている。ただの便利をいうなら、別に牛乳のグラスでウィスキーを飲んでもいいわけですね。筆者自身の中に、そういう寝穢(いぎたな)い精神を嫌う厳しさがある。それをこの本全体に、もっとはっきり打ち出していたらという望蜀の不満を言ってるわけです。

丸谷 そこは非常に難しい問題ですね。いまのデザイン評論家たちはみな、そんな問題があることすら気づいていない段階ですよ。

山崎 じゃあ、われわれが議論した意味はあったということですね。(笑)

いいもの ほしいもの / 秋岡 芳夫
いいもの ほしいもの
  • 著者:秋岡 芳夫
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(201ページ)
  • 発売日:1984-01-01
  • ISBN-10:4103332026
  • ISBN-13:978-4103332022

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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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文藝春秋 1984年9月

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