対談・鼎談

死と歴史――西欧中世から現代へ【新装版】

  • 2024/01/03
死と歴史――西欧中世から現代へ【新装版】 / フィリップ・アリエス
死と歴史――西欧中世から現代へ【新装版】
  • 著者:フィリップ・アリエス
  • 翻訳:伊藤 晃,成瀬 駒男
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(304ページ)
  • 発売日:2022-06-20
  • ISBN-10:4622095351
  • ISBN-13:978-4622095354
内容紹介:
「まず私たちが出会ったのは、非常に古くからあり、非常に永続的な非常に巨大な感情、受動的な諦めと神秘的な信頼との中間にある、恐怖も絶望も伴わぬ、死との親近感でした。……死とは、自身の… もっと読む
「まず私たちが出会ったのは、非常に古くからあり、非常に永続的な非常に巨大な感情、受動的な諦めと神秘的な信頼との中間にある、恐怖も絶望も伴わぬ、死との親近感でした。……死とは、自身の人格が、無化するのではなくて、眠ることになる〈運命〉を各人が認めることなのです。……この信仰は、今日のわれわれが考えるほど、前の時間と後の時間、生と死後の生とを対立させはしません」
「近代になると、死のとりあげ方やその儀式には一見連続性があるようでも、死は問題とされるようになり、一番なじみ深い物事の世界から、ひそかに離れていきました。想像界では、死はエロティシズムと結びつき、日常の秩序からの断絶を表わすようになりました」

『〈子供〉の誕生』では、〈小さな大人〉から〈子供〉への家族の感情・心性の歴史を、そして、『死を前にした人間』では、数多くの図像、文学作品、墓碑銘、遺言書をもとに、〈飼いならされた死〉から〈汝の死〉への感情・心性の歴史を描いた、歴史家アリエスによる講演・論文集。大著『死を前にした人間』を凝縮した内容の講演「死を前にしての態度」や、歴史家の方法論にも触れた「ホイジンガと死骸趣味の主題」「集合的無意識と明確な観念」などの論文を収めている。死生観が揺らぎ続けている現代に、本書から歴史に学び、俯瞰する視点を読み取ることができるであろう。


【目次】
序――終ることのない書物の物語

I 死を前にしての態度
飼いならされた死
己の死
汝の死
タブー視される死
結論

II 研究の道程 1966-1975
中世における死を前にしての富と貧困
ホイジンガと死骸趣味の主題
モーラスの『楽園への道』における死の主題
死者の奇跡
遺言書と墓に見られる近代的な家族感情について
現代における死者礼拝に関する試論
今日のフランス人における生と死
倒錯した死の観念。西欧社会における死を前にしての態度の変化
患者と家族と医者
『死期』
『瀕死の患者』
集合的無意識と明確な観念

訳者あとがき
原注

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木村 最近、ヨーロッパ、アメリカ、そして日本でも、死とどういうふうに向いあうかという問題が活発に論議されるようになり、死に関する書物が俄かに数多く出されるようになりましたが、この『死と歴史』は、そういう議論の出発点をなすものではないかと思います。 著者のアリエスは、現代フランスの歴史学界の中でも極めてユニークな地位を占めている学者で、これまでにアンシァン・レジーム下における子供の問題、教育の問題などを取り上げ、多くの人の関心をひいてまいりました。 この本は一九七三年に行われた四つの連続講演を基調に、十二篇の論文を加えたもので、ヨーロッパ人が十二世紀から現代まで、どのように死と向いあってきたかを説き明しています。

彼の主張を簡単に述べますと、中世の人びとには、自分の死がよく分っていた。人と死は親しい関係だった、というのです。『ロランの歌』の一節に「死が自分をすっかりつかまえ、頭から心臓へと降りていくのを感じる」とありますが、人間が自覚的に死を捉えているという実感が、よく表れています。中世の人は自ら死を準備した。死の主体はあくまで死にゆく個人にあったわけです。 また、古代では町の外に造られていた墓地が、中世になると都市の中へ入ってきます。人びとが聖者の近くに埋葬されることを望んだからで、死者と生者が共存することになります。 しかし、にもかかわらず、死体そのものは、いわば教会に捨てられたのです。死体はまず大共同墓穴の中に積み重ねられ、やがて掘り返され、骨は納骨所に積み入れられます。そのあとにまた新しい死体が埋められる、といったぐあいにです。死の主導権が個人にあったことと、死んだあとの遺体に対する冷淡さ、無関心さが、中世の態度でした。 そして中世の終り、近世の始まりとされる十四、五世紀には、死ぬ瞬間に、自分の人生全体を読み返すということが人びとに求められるようになりました。また生涯に所有した物や存在に対し、烈しい執着を表わすようになります。

ところが死に対する態度は、十八、十九世紀になると大変化を遂げます。関心は自分の死から他者の死、家族の死に移り、身内の死、他者の死に対して泣き、祈り、身ぶり手ぶりをするように変りました。これは古くからのものではなく、近代以降のもので、従って必ずしもキリスト教起源とはいえない、とアリエスはいいます。 遺言も、それまでは慈善行為や墓所の選定、ミサや礼拝の設定などが記されていたのですが、十八世紀半ばから、そういう条項が消え、財産の分配を記す法的証書になりました。 と同時に喪が強調されるようになり、家族・使用人が一定期間蟄居(ちっきょ)する。のみならず馬や蜜蜂に至るまで喪のときは黒いベールで被われたといいます。(笑) 墓参が盛んとなったのも、実は十九世紀に入ってからです。死者を礼拝する墓地は公園として、都市に不可欠のものとなり、死者の礼拝が祖国愛の一形態とも見られるようになったのです。

ところが今世紀に入ると、死それ自体がタブー視されるようになります。これはアメリカから始まったと、アリエスはいうのですが、死は恥ずべきもの、本人に気づかせてはならないものという誤魔化しが始まった。死の主導権は病院に移り、ここで死の引き延ばし、死の細分化が行われ、どこに本当の死があるのか、誰にも分らなくなってしまった。こうして人びとが死について無関心となった現代の残酷さ、非人間性、裏返せば生の感覚の後退を、著者は鋭くえぐり出します。 最後に、白血病に侵された神父が、病院で鼻や腕にマスクやチューブをつけられ、口もきけない状況に置かれたとき、自らマスクをとり、「自分の死を人にとられてしまってなるものか」と叫ぼうとしたというエピソードを紹介して、アリエス自身の結論としています。全篇が現代に対する優れた文明批評となっている本だと思います。

山崎 年報(アナル)派という新しい歴史学の一派があって、歴史を政治や経済からだけではなく、もっと直接的な人間の生活の意識から迫ろうとしているということは、前から知っていましたが、アリエスという、この派の代表的な学者の論文を読んで、すなおに、私にとって馴染みやすい歴史の読み方だなという印象をもちました。 面白い点は色々ありますが、一つ例をあげると、従来、人間の自我は、ムラや家に反逆して生まれた近代の産物だと説明されていました。しかし死というものを手がかりにしてみると、自我、つまり「己れの死」というものは、いわゆる中世と呼ばれる、十二世紀から十五世紀の間に成立している。それまで最後の審判で完結すると考えられていた一人の人生が、現実の死の床で終るのだというイメージが生まれる。同時にそこで一代記、人生の全体をふり返って思い出すというイメージが表れてくる。そして一生の間に手にいれた所有物に対する激しい執着が表れる。この三つが結びつくのが十二世紀から十五世紀で、とりわけ十三世紀には個人の墓ができてきたという指摘には感心しました。 十八世紀に至って、それまでは死ぬ個人と神との問題であった遺言が、家族を経由することになる。

いいかえれば、それまでは死ぬ個人が死ぬことについて百パーセントの主導権を持っていたのに対し、家族が喪に服する形で主導権の半ばを手に入れる。死んでいく人の死を家族が意味づけるわけで、ここに「汝の死」が生まれるのだという説明もたいへん鋭くて面白かった。 その上に、現代における死についてのイメージもアリエスの指摘で、非常に納得いく形で説明されたと思います。 ちなみに、初めてアメリカに行った時、私は驚いたことが二つありました。 一つは葬儀屋さん。英語ではフュネラール・パーラーといいますが、まるでフルーツ・パーラーのようにきれいで、私のいたニューイングランドの町で、最も童話的でロマンチックな建物は葬儀屋さんでした。(笑)

次にびっくりしたのはお墓。まるでゴルフ場か遊園地で、およそ死の暗いイメージがないんですね。 アメリカにおいては死がかくも衛生的で実感のないものになっているわけが、アリエスの説明でよく理解できます。近代のアメリカは死を排除するとともに、死につつある人間も追放してしまった。それは一人の人間ではなく、臨床治療の対象、意志のない子供、孤独で辱しめられた存在になっていると、アリエスはいうんです。その裏返しが、あの明るく美しい葬儀の風景だったわけですね。

木村 死を見せない生き方を、アメリカ人はしてきたんですね。佐伯真光さんの『アメリカ式 人の死に方』という本にあるんですが、交通事故死などでめちゃくちゃになった顔を元通りにするエンバーマーという、ちゃんと学位をもった人たちがいるそうです。死者の顔を微笑ませ、生きているように見せて、最後の対面をさせる。ケネディが暗殺されたとき、なぜかその最後の対面がなくて、これは良き伝統を壊すものだ、メシの食いあげだと葬儀屋さんたちが、ホワイトハウスにデモをかけたそうです。(笑) というふうに死を考えなかったアメリカ人が、最近、死を考えるようになりました。「将軍」という映画がヒットしましたが、あの中で自決の場面が何度かでてくる。日本人は美しく死ぬことを知っているというのが、ヒットした理由の一つだといわれます。このようにアメリカ人が変ったのは、ベトナム戦争の失敗による精神の翳りだと思います。

丸谷 いままで何ということなく見過ごしていた……といっては嘘なんで、ちょっと気にかかってはいたけれども、うまく説明がつかないでいたことが、これで非常によく分る、そういう本ですね。なるほど、こういう歴史の見方、書き方があるんだな、自分は確かにこういう歴史の本を求めていたんだな、と思って感心しました。 具体的に言いますと、たとえばトリスタンの死に方について「彼は壁の方に顔を向けると、言った。〈もうこれ以上、生命永らえることはできませぬ〉と」という引用があります。
ヘミングウェイに「殺し屋」という短篇小説があって、仲間を裏切って逃げてきたらしいヤクザがいる。そのヤクザを狙う殺し屋がやってくる。殺し屋がきているから逃げなさいと、少年が教えに行くんですが、殺されるはずのヤクザは壁の方をむいて何もいわない、たしかにそういう筋でした。 壁の方をむくという図像学的な意味が、この本でやっと分って、なるほどそういう伝統があったのかと感心しました。あの小説を最初に読んだのは三十年以上前だと思うんですが、三十年経ってようやく分ったわけですねえ。

山崎  私も従来触れていた西洋文化のできごとについて、気がつかなかった意味をずいぶんおそわりました。 たとえばロミオとジュリエットが墓の中で結ばれますね。あそこで死(タナトス)と性愛(エロス)が密接に結びついているということは誰でも分るわけですが、それが十六世紀に起った一つの思想的な変化の産物なんだというのは、本当に面白い。 そういえば、デューラーの黙示録の版画の中にも、セックスの象徴が死と結びついて出てきますね。 それから十七、八世紀ごろ、一般の人たちが解剖図や死骸の絵を喜んだ、金持が死骸を買いしめるので、医学用の解剖の材料がなくなった、というんですね。それで分ったのは、レンブラントの有名な解剖図、あれを‟冷徹なリアリズム”といった決まり文句で理解してきたけれども、それだけじゃない。あれは死骸趣味(マキャーブル)というものなんですね。

丸谷 小学生の時に伯父が死ぬのに立会ったことがあるんです。大きな醤油屋の当主でしたが、三十畳ほどの部屋に五十人くらいの人が見守る中で死んでいくわけです。私は大変衝撃をうけました。それ以後、あんなに大勢が立会う臨終というのは、住宅事情のせいかもしれませんが(笑)、見たことがない。この本を読んで、なるほどあれは、昔のヨーロッパと同じ、公的な別れの儀式だったんだなあと、感慨にふけりました。

山崎 昔、武士が腹を切ったということは、たいへん特殊な異常現象のように思われているし、私なんかも、とてもできないと思っています。(笑)
しかしたとえ病死であれ、死ぬというのは、主体的な行動なので、歩く、食べる、殺すといった言葉と同じ動詞なのだということを、われわれは忘れたんですね。現代人は自己の生にどこで線をひくかというと、本当にこの世に別れる時じゃなく、多分ホスピスに入院する前のところで線を引いてしまっている。そういうことをアリエスという人は、非常に鋭く見ていますね。

木村 そうですね。かつては死にいく人が、立会人の人びとの手を重ね、その人たちの許しと加護を神に願った。死んでいく人が死の儀式の主宰者だった。これによって立会人は、生と死の意味を鮮烈に実感したわけです。 昔のヨーロッパの名医の条件は、治すことではなく、死期をはっきり言い当てることだった。「貴方はあと一ヵ月しか命がございません。このあいだに御準備遊ばせ」とちゃんと言えるのが名医だった。 現代でも、治る見込みのある病人を治すのは医者の務めだけれども、治る見込みのない病人を徒らに切り刻んだり薬漬けしたりして死を引き延ばすことが人道的かどうか、大いに問い直す必要があるのではないかと思いますね。

山崎 のみならず、近ごろの病院にとって許される死者というのは、死なないふりをする死者であって、自分の方から死を迎える積極的な態度を表現する者は許されない。ただ病気中のある一日がすっと終えるように死んでくれる死者だけが医者によって許されているという、これはちょっとすごい指摘ですね。

木村 アリエスは死が個人の手から家族に移り、今や病院の手に移っていることを痛烈に批判しているわけです。実はアリエスの奥さんが不治の病にかかっていることが分ったとき、彼は病院には入れず自分でひたすら看護したんです。奥さんが亡くなり、そのあとを追うようにして、彼もつい先ごろ亡くなりました。

山崎 あ、そうなんですか、胸をうたれますね。

丸谷 ただ、この本に関してちょっと不思議に思うことがあるんです。人間は古代以来、死後の世界はあると思ってきたわけです。人生は短い、しかし死後の世界は永遠である、と信じてきた。 ところが今世紀に入って、死後の世界はないことになったわけですね。私の思うところでは、これは人類の歴史の中で最も大きな変革だったと思うんです。医療が進歩したせいで、人生は長くなった。七十、八十まで生きるのは当り前になってしまった。しかしそれで終り。人生は長く、そしてそれっきりであると……。(笑) アリエスは死の歴史についてこれだけ書いていながら、死後の世界が消滅したことについて一言も触れてない。そのへんで不満といえば不満なんですね。

木村 それは大変いいご指摘ですね。今のヨーロッパ人は一体に死後を考えてないと思います。この本にも火葬がふえてきているという記述がありましたが、キリスト教徒が火葬を忌避してきたのは聖書にあるように、いつの日か骨が肉体を纏って復活し、永遠の生か永遠の火(地獄)かの最後の審判を受けなければいけないからですね。それまで死者はいわば刑の執行猶予中で、眠っているわけです。ところが火葬にすると、骨がなくなって灰になってしまうので困るということでした。魔女のように復活されては困る者だけがこれまで火葬にされてたわけですね。(笑)
しかし、死後の世界を考えなくなったのはヨーロッパ人だけではないと思います。昔は、苦しい現世を、せめて死後の幸せを願って耐えようとした。その苦しい生が基本的に消滅したというところに、理由があるのかもしれません。

山崎 私も一つ、よく分らない箇所があります。十四世紀から十五世紀にかけて、死が親しみ深いものから怖いものになったのは〈死と失敗との接近によってである〉、とアリエスはいうんですね。つまり死そのものが怖いんではなく、死が人生の失敗、挫折と同じものだと考えられるようになって、怖いものになった、というわけです。 たしかにこれは二十世紀初頭のアメリカ人の、死の忌避というか、死があたかも存在しないかのような振りをする姿勢をよく説明しています。アメリカ人ほどサクセス・ストーリーを信じ、人生の挫折を拒絶する国民はありませんから。 ただし十四、五世紀においてそうであったという証拠は、この本を読む限りまったく分らない。のみならずこのことは、ホイジンガが指摘した「憂鬱の感情(メランコリア)」と密接な関係があると、アリエスはいうんです。

しかし、当時流行(はや)ったメランコリアというのは人生の挫折などとは関係がないのであって、そういうふうに憂鬱な眼で世の中を見ることが一つのお行儀であり、よい趣味だったんだ、とホイジンガは言っているのです。 それなら、私にもよく分るので、平安朝では末法思想がカッコいい生き方で、藤原道長でさえ末法を信じていた。ついこの前までは実存的不安というのがカッコよかったのと同じです。(笑)

このメランコリアという概念については、私は非常に興味があるんです。メランコリアがはやるのはルネサンス末期。イギリスへ行くと十七世紀ですね。シェイクスピアがいますし、ロバート・バートンが有名な『憂鬱の解剖』を書いている。つまり時代の曲り角に、いつもメランコリアがでてくるんです。

木村 当時の人がいかにメランコリアを気にしたかというと、宴会に青野菜を出さなかった。青野菜を食べるとおならが出ますでしょう。おならが出ると体内のメランコリアが増えると信じられていた。(笑)
せっかくのなごやかなパーティがこれで台なしにならないよう、青物は一切出さなかった。十六世紀のカトリーヌ・ド・メディシスが宴会で出した青物は好物の朝鮮薊(あざみ)だけです。

山崎 メランコリアというのは、そういう大事な文化史のポイントなんです。そこを簡単に触れられると欲求不満になる。ホイジンガを批判するなり修正するなり、もっとはっきりしてほしかった。 望蜀(ぼうしょく)の言をもう一言いいますと、死に対する現代人の卑怯な態度、それについてのアリエスの嘆きは、しみじみと共感できるんです。しかしそれは単に孤立したものではなく、もっと広い文明的地平の中にあるのではないのか。われわれはもう自分では鶏一羽も絞められない、そのくせ鶏肉は食っている。そういう虚弱になった感性と、人生の現実を直視できなくなった態度とは関連しているんです。それをどう処理していったらいいのか、それも論じてほしかった。

丸谷 歴史学者は実証的に材料を集めて調べるのが仕事ですから、その先はやはり文明評論家のすることでしょう。ただアリエスの仕事の出発点に文明評論的な姿勢があったことは明らかですね。

山崎
それがないと、また歴史学としても面白くないですね。

木村 中世末の、いまと同じく低成長に入った時代には、死人が腐っていってウジがわくのを、生きている人がジイーッと見据える神経を持っていました。死を見つめることで、生きるということを真剣に考えたんですね。 現代もそれと似て、ひたすら未来にむかって走って生きてきたのが、ここへきて死を考えつつ生きるという気持にかわってきた。ピエール・ショーニュというフランス歴史学界の大御所がシンポジウムで「われわれは死なねばならないことを忘れていた」という挨拶をしたのですが、これは私たちの気持でもあるのではないでしょうか。

死と歴史――西欧中世から現代へ【新装版】 / フィリップ・アリエス
死と歴史――西欧中世から現代へ【新装版】
  • 著者:フィリップ・アリエス
  • 翻訳:伊藤 晃,成瀬 駒男
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:単行本(304ページ)
  • 発売日:2022-06-20
  • ISBN-10:4622095351
  • ISBN-13:978-4622095354
内容紹介:
「まず私たちが出会ったのは、非常に古くからあり、非常に永続的な非常に巨大な感情、受動的な諦めと神秘的な信頼との中間にある、恐怖も絶望も伴わぬ、死との親近感でした。……死とは、自身の… もっと読む
「まず私たちが出会ったのは、非常に古くからあり、非常に永続的な非常に巨大な感情、受動的な諦めと神秘的な信頼との中間にある、恐怖も絶望も伴わぬ、死との親近感でした。……死とは、自身の人格が、無化するのではなくて、眠ることになる〈運命〉を各人が認めることなのです。……この信仰は、今日のわれわれが考えるほど、前の時間と後の時間、生と死後の生とを対立させはしません」
「近代になると、死のとりあげ方やその儀式には一見連続性があるようでも、死は問題とされるようになり、一番なじみ深い物事の世界から、ひそかに離れていきました。想像界では、死はエロティシズムと結びつき、日常の秩序からの断絶を表わすようになりました」

『〈子供〉の誕生』では、〈小さな大人〉から〈子供〉への家族の感情・心性の歴史を、そして、『死を前にした人間』では、数多くの図像、文学作品、墓碑銘、遺言書をもとに、〈飼いならされた死〉から〈汝の死〉への感情・心性の歴史を描いた、歴史家アリエスによる講演・論文集。大著『死を前にした人間』を凝縮した内容の講演「死を前にしての態度」や、歴史家の方法論にも触れた「ホイジンガと死骸趣味の主題」「集合的無意識と明確な観念」などの論文を収めている。死生観が揺らぎ続けている現代に、本書から歴史に学び、俯瞰する視点を読み取ることができるであろう。


【目次】
序――終ることのない書物の物語

I 死を前にしての態度
飼いならされた死
己の死
汝の死
タブー視される死
結論

II 研究の道程 1966-1975
中世における死を前にしての富と貧困
ホイジンガと死骸趣味の主題
モーラスの『楽園への道』における死の主題
死者の奇跡
遺言書と墓に見られる近代的な家族感情について
現代における死者礼拝に関する試論
今日のフランス人における生と死
倒錯した死の観念。西欧社会における死を前にしての態度の変化
患者と家族と医者
『死期』
『瀕死の患者』
集合的無意識と明確な観念

訳者あとがき
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【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

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初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1984年7月1日

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