対談・鼎談

中村 稔『斎藤茂吉私論』(朝日新聞出版)|丸谷 才一+木村 尚三郎+山崎 正和の読書鼎談

  • 2023/07/16
斎藤茂吉私論 / 中村稔
斎藤茂吉私論
  • 著者:中村稔
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:単行本(327ページ)
  • 発売日:1983-11-01
  • ISBN-10:4022551488
  • ISBN-13:978-4022551481

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。


丸谷 中村稔さんは、現代日本の代表的な詩人の一人です。その中村さんが斎藤茂吉について不思議に思っていたことがあった。それは戦後の茂吉が一方で、

かりがねも既にわたらずあまの原かぎりもしらに雪ふりみだる
最上川逆白浪(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも

のような傑作をつくりながら、他方では、戦争中、自分が乱作した戦争歌や東条英機を讃える歌について、「死骸の如き歌累々とよこたはるいたしかたなく作れるものぞ」などと平然としている。〈敗戦という事件は、その詩法を疑わせる契機にならなかったし、そういう意味で茂吉の精神に何の傷も負わせなかった〉というわけです。

その謎を解くため、茂吉の生涯を探って、いろいろ面白い、新味のある意見を著者は出しています。たとえば茂吉の滞欧随筆の魅力、ことに生き生きとした描写力を絶賛しながらも、茂吉は〈個人のレベルでしか民族間の軋轢(あつれき)も国家内部の矛盾も理解することができなかった〉。ユダヤ人に対して差別意識をもっていた。文明批評的な態度がなかった――そんな欠陥を指摘しています。が同時に、〈茂吉はわが国の知識人の多くが体験したような意味でのヨーロッパ体験をもたなかった。だがそれ故にこそ〉深刻そうな勿体ぶりや、異文化に対する固陋(ころう)な反発からまったく自由な、すばらしい旅行記を書けた、というんです。そして、ここが大事なところですけれども、これはつまり茂吉が日本の庶民の感性を持っていたからだ、というんですね。

それと関係があるかと思いますが、よく言われる茂吉の女好き、ヨーロッパの宿屋で隣室の客の性交を覗くような趣味についても、こんなことをいうんです。
茂吉は恋人たちに対するときも女性蔑視の念を抱いていた。しかしそれ故にかえって〈女性につねに母性をみ、生命をうみだす神的なもの、聖的なものをみていた。同様に性的ないとなみにも、やはり神的なもの、聖的なものをみていた〉。それだからこそ「死にたまふ母」や祖母への挽歌など、女の人を悼む歌には傑作が生まれた。逆に、男が死んだときには、ろくな歌をつくらなかった。(笑)

これは、ほんの部分を紹介しただけですが、著者はこういう具合に茂吉を検討していったあとで、晩年の作品『白き山』の中の、先ほどあげた二首についてこう言います。

この二首の歌に茂吉は姿をあらわしていないけれど、自然を前に佇んでいる作者・茂吉を入れて考えるべきである。ここには作者と自然との調和、融合がある。自然と向い合っている茂吉の心は非常に貧しい。彼はただ戦後という時代を恐れているだけだった。しかし心のその貧しさにもかかわらず、あるいは貧しい分だけ、その汲みあげている悲しみは深い。もともと茂吉にとって短歌とは詠嘆の形式でしかなかったのだが、無思想な男が敗戦によって、むやみに怯え、恐れ、悲しみ、さらにそれに加えて老年の悲しみがあって詠嘆するとき、戦後短歌の代表作ができた。

ところどころ私の言葉になりましたが、著者の中村さんはそんなふうに言っているようです。なかなか読みごたえがありました。

山崎 おっしゃる通り、大変読みごたえのある本です。

近代の歌人の中で、歌のうまさという点では、いろいろ評価が分れるでしょうけれども、人間としての魅力という点では、茂吉が一番だというのは、まず定説だと思うんです。彼に偉大な思想があるとか、写実的な描写が特にうまいというわけではない。なのになぜこんなにわれわれを惹きつけるのか、これまで書かれた評伝を読んでも分りにくい。何とも手がかりのつかめない大きさが茂吉にはあるんですね。中村さんもその魅力に惹かれてこの本を書かれたのだと思いますし、たしかに茂吉の真相の一つの断面をとらえていると思います。

茂吉というのは、あらゆる愚行を犯し、あらゆる誤った感想を抱き、時には知識人らしい知性さえ欠如しながら、そういう欠点のある自分の実相を自分でまるごと見てしまうという不思議な作家なのですね。

一方では、茂吉は自己劇化癖というか、お芝居がかりの、いやらしい奴だという見方も昔からあるわけですが、しかし中村さんはそうは見ないで、私の言葉に翻訳していえば、茂吉の歌は「引用符つきの歌」だというふうに解釈しておられるような気がします。

つまり、茂吉はある愚直な人間臭い感情を恥かしいほど大声で叫んで、しかし、それに引用符をつける。「……!」と叫んでいる茂吉がここにいるよ、とこう歌うわけですね。そうすると、われわれはその愚かな感情をまざまざと見ながら、しかし、それを眺めている茂吉自身の正確さに感心してしまうという構造になっているんだと思います。普通、芝居がかりといえば、感情そのものを作ってしまうわけですが、茂吉の場合はむしろ素朴な、何一つ繕(つくろ)わない感情を叫びあげたうえで、ただし、そう叫んでいる茂吉がここにいると、自分で自分を見ている。それを指摘された中村さんの功績は立派だと思いました。

木村 中村さんは弁護士、法律家なんですね。それで同時に詩人だという、われわれの思い込みからすると両極端の仕事を一緒にやっている人なんです。ここにまず並々ならぬ力量を感じます。

この本はドラマ的というか、実に起承転結がはっきりしています。冒頭から「軍閥といふことさへも知らざりしわれを思へば涙しながる」という茂吉の歌をひいて、おや、茂吉ってこんな単純な人だったのかと、まず読者をひきずり込む。そうしておいて料理にかかり、綿密に論旨を展開して最後に止めを刺す。そんな調子ですから、途中を飛ばして読めない。苦痛にみちて読みました。(笑)

丸谷 苦痛だったですか。(笑)

木村 ええ、読書って、こんなに苦痛で、かつ愉しいものかと。(笑)

たとえば「家いでてわれは来しとき渋谷川に卵のからがながれ居りけり」という茂吉の歌がある。卵の殻が流れているというのに、なぜ「家いでてわれは来しとき」なんてムダな言葉が必要なんだと、まず中村さんは問う。はてな? とわれわれも考えさせられますね。結局卵の殻は、どうでもよくて、それを認めた「われ」を茂吉は詠嘆してるんだと中村さんは説きあかしてくれる。なるほどとこちらも納得するわけです。ちょうど料理人が鰻の頭にトーンと錐(きり)を刺して、スウーッと割(さ)いていく手つきに似ていますね。もちろん、私たちが鰻です。(笑)

山崎 卵の殻ではなく、殻を詠嘆する「われ」を茂吉はうたっているというその解釈が、この本の眼目ですね。「引用符つきの歌」と私がいったのもそういうことです。

丸谷 それは「最上川逆白浪に……」の中に、あらわに茂吉は出てこないけれど、茂吉をそばに置いて考えなければこの歌の解釈はできない、といってる態度と同じわけですね。

山崎 そうなんです。一点の洞察で茂吉の全体を見ぬいてしまう、というところがこの本にはある。本質に一気に迫るという点で、文芸批評として不可欠の資格をそなえています。ただ私は、この本の全体がドラマ的な構成で書かれているとはとても思えない、あらゆるところで同じことの繰り返しが目立って、その点では、茂吉その人と同じように直情の書だと思いますね。

木村 なるほど。しかし“ドラマ的”と私がいったのは、必ずしも誉め言葉ではなく、理に落ちるところもあるのではないかという意味です。たとえば茂吉の『ドナウ源流行』に「汽車のなかで僕は幽かに婬欲(いんよく)のきざすのを感じた」という表現がある。なぜこんな唐突なことを書いたのか。中村さんはこう解釈している。

茂吉は女性を生命を生み出すものとして評価していた。『ドナウ源流行』のモチーフがドナウへ流れ込む無数の小川への関心であり、生の始源への関心であったとすれば、〈河岸を去って暫くして、茂吉が『幽かに婬欲のきざす』のを感じたのも決してあやしむに足りない〉と。しかしこれはちょっと読み込みすぎではないか。汽車に乗っていてフッと感じることは、私だってある。(笑)茂吉はそのような事実をただ正直に書いたとしても、少しもおかしくないのではないか。

山崎 この本の最大の功績は、やはり茂吉という人物の面白さを思い出させてくれたことだと思います。彼はある種の日本人男性の典型なんですね。「庶民の感性」と中村さんはいってますが、それだけではない。日本の古い知識人は、自分の判断や思考に禁欲的で、自分の哲学、人生論を照れて語りたがらない。それを男らしいとする感性を茂吉も持っていたということです。

もう一つ言えば、そういう人生観や世界観を安易に語るのは都会の青年である、とたぶん茂吉は思っていた。明治の田舎の出身で、都会人・斎藤家の養子に入った茂吉は、特にそれを意識させられる環境にいたわけです。日々周りに軽薄才子を見ているうち、それらに批判的な感性がやしなわれたのだと思います。そうなったとき、茂吉に信じられたのは、第一に「母なるもの」であり、第二に人間の手で汚される前の自然であり、そして愚直に黙って、日常の生活実感にたてこもっている男たちなんですね。余談ですが、そういうタイプの男は昔たくさんいたと思う。彼らが無口で暗い家庭を作り、ついには黙って戦争すら起したという点で、私は反感ももつんですが、同時に、同じ日本人として、いささか歯がたたないなという気もします。

木村 〈茂吉を考えることは、日本人とは何かを考えることと、ほぼひとしいのであろうか〉と著者はいうんですが、私はこの本を読んで、茂吉という人が、普通の日本人だとは全く思えませんでした。なぜならヨーロッパに留学しても、コンプレックスを全然感じていないでしょう。〈東京の道路は近時至るところ立派になつて、恐らく欧羅巴のいづれの都市の道路に較べても遜色あるまいと思はれるほどになつた。然もそれはしじゆう新式によつて改良して行く手際には、欧羅巴人が見て驚くほどだとおもふ〉

と昭和七年に書いているのは、とても日本の庶民の感覚ではない。もう一つは、死を見つめる態度です。島木赤彦の最期の様子をジイーッと観察して書いている。悲しみを表面に出さず死を見つめる、これも日本人の感覚からはほど遠い。彼はきわめて強靱な個我であって、普通の日本人が右顧左眄(うこさべん)して自分の考えをきめるのとは大きく違います。

山崎 茂吉も、始めからコンプレックスを感じなかったのではないと思うんですよ。ミュンヘン大学で研究計画をたてたところ、指導教授に一蹴される場面がありますね。もし彼が西欧的・近代的個人であれば、猛然として反論したはずですが、彼はうなだれただけです。

また、これがもし『旅愁』の横光利一だったらどうしたか。西欧に直接の反論もしないが、そのかわりに“日本的精神”のような得体のしれない観念を作りあげて、それを信じる態度にでたかもしれない。

ところが、茂吉はそのどちらでもなくて、めしも食い、女と寝て、糞もする日常的人間というところへ戻ってしまう。それなら西欧も日本も同じじゃないかというわけです。

この姿勢は、繰り返しになりますが、明治の田舎から出てきて、東京の医者の養子になり、将来、自分の女房になるはずのハイカラすぎる娘を見すえながら、感性のたこのようにして作りあげたものだと思うんです。そこにはきわめて臆病な自己中心主義と、傲慢(ごうまん)な居直りと、そして誠実な実感主義が共存しているんですね。

木村 しかし茂吉はやっぱり並の日本人と違うなあと思うのは、こんな場面です。かねてから憧れていた学者クレペリンに会って茂吉は名刺を渡すが、クレペリンは名刺を見ようともしない。お礼を述べても一語も応えない。しかしプチという人が礼を述べたらクレペリンは自分の方から握手した。続いて茂吉が握手しようとしたら、手をひょいとひっこめてしまった、〈爾来、学会に於て私はいつも彼を見たけれども、その時すでに私は自らを彼と対等の位置に置いてゐた〉〈私は瞬(まばたき)もせずに彼の面を凝視してゐると、たまたま彼の目と私の目と合ふことがある。その時にはいつも彼は私から目を外らした。それでも私はかまはず彼を凝視してゐた〉

日本人は、大体、あまり目を合せないし、ヨーロッパ人でも、よほどしつこい人じゃないと、こういうことはしないですよ。(笑)

丸谷 茂吉って人は非常にしつこい人なんです。茂吉があれだけ偉くなった理由の三分の一は彼の論争癖にありますね。(笑)とにかくしつこく、くどく、論敵に対して悪罵を投げつける。やられてるほうでは相手があまりどぎついんで、厭になって沈黙してしまう。すると茂吉は勝った勝ったと快哉を叫ぶ。そして、程度の低い読者も、茂吉が勝ったと誤解する。この見つめる話にしたところで、そういう見当違いの勝利感をむさぼってるだけのことですね。

木村 茂吉のそういういやな面については、この本はあまり触れてないですね。

丸谷 著者の中村さんは、茂吉に対して好意的な優しい人だなあと思いますね。ずいぶん批判しているように見えながら、しかし、何とかして好意的に解釈しようと努力している。

山崎 文芸評論というのは、対象に惚れて書くものだと思うんです。自分の賢さをひけらかすためのものじゃないんでね。中村さんは茂吉に惚れている、少なくとも茂吉には敵わないと思っている。そのことはいいと思うんですが、どうして言いたいことをもっと平明におっしゃらなかったんだろうかと思うんです。どうも日本の詩人、歌人が評論を書くと、お洒落なのか、別の動機からか、ひどく口ごもるんですね。口ごもることがさほど意味があるとは私には思えない。戦争中の茂吉に対し、態度を保留するという発言もひどくしつこいし、にもかかわらず、その茂吉の自己弁護を何とか守ってやろうという発言も少しくどいんですね。

丸谷 僕は茂吉の歌を世間でいうほど素晴しいと思ってないんですよ。でも時どき感心する。それで茂吉論はわりに読んだんですけど、中では中村さんの仕事が一番充実している。僕にとって参考になるんです。

というよさを認めた上で言うんですけれど、私の考えでは、和歌はもともと呪術的なもので、発生的には文学でも芸術でもなかった。柿本人麿は茂吉の原型ですが、人麿は要するに呪文の文句をつくらせれば名人という呪術者、祝詞専門の神主のような人だったわけです。キーツやシェリーが詩人だったというような意味での詩人ではなかった。短歌のそういう性格は後代になってもずいぶん残っていた。ところが明治の歌人たちは、短歌を、西洋近代的な文学をいれる容れ物にしようとして、そのため、枕詞とか歌枕とか、呪術的なものを盛るのに都合のいいものを景気よく追放してしまったわけです。

いいかえれば、昔の短歌の内容のかなりの部分は呪術、呪力だった。思想や思弁といったものは三十一音という長さの関係上、もともと盛りにくかった。そこで呪術のほうを追放すれば、残るのは詠嘆だけになるのは当り前だと思うんです。茂吉の短歌の本質は詠嘆だけだといって慨嘆するのはおかしいという気がするわけですね。そこで人間論に戻していうと、茂吉って人は古代を失ってしまった古代人だと思うんです。

山崎 丸谷さんがおっしゃるように短歌は呪術になるか、あるいは「古今集」のように言葉のゲームになるか、どちらかなんですね。(笑)それを子規がまちがえて近代写実の道具にしようとした。三十一文字でリアリズムを狙うというのは、もともと無理な芸当なんですね。その証拠に、中村さんは、この本で、歌を一首ずつではなく一連の組みあわせとして読もうとしている。それではなぜ詩にしてしまわないんだ、ということになると、大いに議論の余地があると思いますが、そういう無理は茂吉のみならず近代の歌人がみなやっていることなんです。ただ、丸谷さんは茂吉を古代人とおっしゃったが、それは少し買いかぶりで、茂吉は古代人ほど大らかではない。

丸谷 いや、僕は古代人も大らかじゃなかったと思うけど。(笑)

山崎 ええ、それなら同じことですが、古代人というより、近代化に乗りきれなくて居なおった、農民の意地だったような気がするんです。野獣的な本能の発露というより、もっと世俗的な生活主義ですね。本当にこの人は現実生活に徹底的に愛着をもっていた。女性はその肉体が好きだし、食物にはひどい執着があった。死は怖かったから人が死ぬところは見たくなかった。たしかに人が死ぬ前日のことは丹念に書いているんですが、いよいよ死ぬ瞬間になるとつと逃げてしまう。

木村 赤彦の臨終のときは最後の最後まで仔細に観察していますけれど。

山崎 しかし友人の古泉千樫や平福百穂、自分の兄の場合は、死の瞬間には立ちあっていない。著者の中村さんも、茂吉にとって〈臨終を見届けるのは常人にまして「苦痛」であったに違いない〉といっています。

木村 逆にいえば、それだけ死と生に対して非常に関心が強い人だったということでしょうね。ウィーンでは一時間あまりも接吻している男女を、木蔭に立ちつくしてジイーッと見ている。

山崎 「長いなあ、実に長いなあ」と。しかし、あれはいい文章ですね。(笑)

木村 日記に〈『改造』ノタメニ歌五首作リ。交合シ、『Donau ノ源流行』ヲ十枚バカリ読返シテ寐タリ〉、こういうことは、普通の人なら書かない。(笑)だから、夫人に裏切られたときの執念はすごい。夫人を田舎へやって、新聞も読まさず、来る手紙も押さえてひたすら謹慎させたという、あのしつこさ。これはわれわれの“水に流す”、あるいは“思い切る”のとは違う神経ですね。著者はそれに大変惹かれたんだと思います。この本は「斎藤茂吉私淑論」ということではないでしょうか。

山崎 ちなみに私は、この表題が気にいらない。「斎藤茂吉私論」。文芸評論が私の論であることは決まりきっています。(笑)それをわざわざ「私論」というのは一種の逃げとして見られる恐れがあります。

丸谷 歌人でない者が書いた茂吉論という意味なんでしょうね。中村稔はなかなかいい詩人ですが、茂吉の高さの前に立つと、やはり茫然とするらしい。ただ彼は明治以降の日本文学という枠の中だけで茂吉を考えてますね。僕はそれが不満です。日本の詩の歴史全体の中で茂吉を考えたら、話がずいぶん違ってくると思う。だから中村稔が次にしなければならないのは柿本人麿を論じることだ。(笑)人麿と比べて茂吉はどうだってことを考えるべきでしょう。

斎藤茂吉私論 / 中村稔
斎藤茂吉私論
  • 著者:中村稔
  • 出版社:朝日新聞出版
  • 装丁:単行本(327ページ)
  • 発売日:1983-11-01
  • ISBN-10:4022551488
  • ISBN-13:978-4022551481

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

中村稔著作集〈第3巻〉短詩型文学論 / 中村 稔
中村稔著作集〈第3巻〉短詩型文学論
  • 著者:中村 稔
  • 出版社:青土社
  • 装丁:単行本(675ページ)
  • 発売日:2005-02-01
  • ISBN-10:4791791533
  • ISBN-13:978-4791791538
内容紹介:
子規、啄木、茂吉ら"われ"をうたに篭めた短歌・俳句の革新者たちの生の真髄。現代詩の実作者として抱く短詩定型への愛着と反撥をつうじて精緻な論証により掴みだした、生の実相と抒情の核心。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。



【この対談・鼎談が収録されている書籍】
三人で本を読む―鼎談書評 / 丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
三人で本を読む―鼎談書評
  • 著者:丸谷才一,木村尚三郎,山崎正和
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:単行本(378ページ)
  • ISBN-10:4163395504
  • ISBN-13:978-4163395500

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ

初出メディア

文藝春秋

文藝春秋 1984年3月号

関連記事
ページトップへ