書評

『ドナルド・キーン著作集第十二巻 明治天皇〔上〕』(新潮社)

  • 2024/06/28
ドナルド・キーン著作集第十二巻 明治天皇〔上〕 / ドナルド・キーン
ドナルド・キーン著作集第十二巻 明治天皇〔上〕
  • 著者:ドナルド・キーン
  • 翻訳:角地 幸男
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(413ページ)
  • 発売日:2015-07-31
  • ISBN-10:4106471124
  • ISBN-13:978-4106471124
内容紹介:
日本史上、最も際立つ存在でありながら、内面の思考や性格がほとんど見えない明治天皇。幕末期の騒然たる世相の下、若くして即位し、開国・維新へと向かう流れの中で、天皇はいかに国を率いようとしたのか――。碩学が、誰も書かなかったその人物像に迫る。

人格と事績を生き生きと描いた伝記

明治天皇は明治国家の成長とともにあり、明治国家と不即不離の関係にあった。このため明治天皇を描くことは明治国家を描くことでもあるため、その伝記を記すことは極めて難しいものとされてきた。明治国家の功罪について正面から検討せずに明治天皇を書けるのか、こうした質問にイエスと答えるのは難しい。

たとえばこれが前近代の天皇ならばそれほど難しいことではない。歴史的に相対化されており、思い込みや断罪などの価値から自由になれるからである。だが、今に続く近代国家の形成に決定的な役割を果たした明治天皇であれば、そうはゆかない。そのためこれまでに書かれた伝記はある側面に注目してのものであり、正面から挑んだものはなかった。

しかし明治天皇を相対化できるのならば不可能なことではない。その点で著者はまさに伝記作者としてうってつけであった。「日本人」という枠から自由だからである。著者のとった、明治天皇を諸外国の国王や皇帝と比較するという視角も有効に働いている。

だが、史料の多くは『明治天皇記』十三巻という大部の資料集に収録されてはいるものの、そこから天皇の言動と行動を読み取ることは容易ではない。さらに悩ましいのは、史料からは天皇の感情が全くうかがえず、肉声もほとんどうかがえないことである。伝記作者は対象から自由になるとともに「対象に惚れ込む」必要がある。

生き生きと描くためには「対象を眼前に蘇らせる」務めをともなうが、史料は侍読(じとう)や侍従が伝える記録や勅語・行事の次第が主であり、したがって肉声を捉える手掛かりは数多く詠まれた和歌のみである。そこから天皇の感情を推し量るのは容易ではない。

しかしその点も、日本の文学史を古代から近代まで叙述した著者にして可能となった。明治天皇の伝記がなぜ文学者によって書かれねばならなかったかが、ここからよくうかがえる。

こうして明治天皇の伝記は書かれた。一九九五年から足掛け六年にわたって雑誌『新潮45』に連載されていたものがまとめられたのである。上下巻計千百五十ページの大作であって、その努力に敬意を表したい。維新から日露戦争までの激動の時代を描くのであるから、天皇にだけ焦点をあわせていたのでは叙述は不可能である。しかし歴史の変動にばかり目をとられていると、天皇の存在がそこから消えてしまう。そうした叙述の難しさを克服しながら、国家と天皇の成長の歴史を見事に書き切ったことに脱帽させられた。

時に行事について詳しく記されているのも、天皇の一挙手一投足を追うことで、その息遣いを探ろうとしたためである。また数々の天皇のエピソードをできるだけ掘り起こそうとつとめており、それらは終章にまとめられている。特に興味深いのは、「天皇が軍服を好んで着たということや陸軍演習を統監することが好きだったということとは裏腹に、天皇は心底から戦争が嫌いだったという事実」という指摘である。維新に始まり、西南戦争・日清戦争・日露戦争という戦争の時代の指導者の一面をよく捉えていよう。

ただ天皇と国家を結ぶ大日本帝国憲法についての記述が少ないのには、不満を覚える読者がいるかもしれない。第四十章の「キョッソーネの御真影」のなかで、「天皇、及び天皇に付与された主権の強調は、この憲法が主権を国民に授与するものから程遠いものであることを示していた。それでもなお憲法の授与は、日本における代議政体の開始を告げるものだった」と、簡単に触れるのみである。

しかしここに本書の特徴がうかがえる。こうした問題に深入りすれば、伝記から離れてゆくことになろう。またこの憲法よりも天皇に大きな影響を与えたのは、五箇条御誓文であったという主張が読み取れる。

「若き天皇が最初に手がけた歴史的に重要な意味を持つ仕事は、疑いもなく慶応四年三月十四日の国是五箇条御誓文の発布だった」と、第十六章「初めての凱旋」は始まっている。「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という革新的内容は、「日本を文明開化の近代国家にしようと望む人々の理念として生き続けた」という。天皇はこの理念に沿って動いてきたというのが、著者が最も主張したかったことではなかろうか。

教育制度の計画を述べた二十三章「天皇使節団」でも、「これらの計画は、五箇条御誓文にある『旧来ノ陋習ヲ破リ……智識ヲ世界ニ求メ……』という天皇の誓約を実行に移したものである」と記している。

こうして明治天皇の人格と事績とをできるだけ詳しく捉えた本書に、さらに望むとすれば、天皇が残した皇室と国家への遺産についての言及であろうが、それは他の伝記作者に託すべきものかもしれない。

【文庫版】
明治天皇 / ドナルド キーン
明治天皇
  • 著者:ドナルド キーン
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(471ページ)
  • 発売日:2007-02-28
  • ISBN-10:4101313512
  • ISBN-13:978-4101313511

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ドナルド・キーン著作集第十二巻 明治天皇〔上〕 / ドナルド・キーン
ドナルド・キーン著作集第十二巻 明治天皇〔上〕
  • 著者:ドナルド・キーン
  • 翻訳:角地 幸男
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(413ページ)
  • 発売日:2015-07-31
  • ISBN-10:4106471124
  • ISBN-13:978-4106471124
内容紹介:
日本史上、最も際立つ存在でありながら、内面の思考や性格がほとんど見えない明治天皇。幕末期の騒然たる世相の下、若くして即位し、開国・維新へと向かう流れの中で、天皇はいかに国を率いようとしたのか――。碩学が、誰も書かなかったその人物像に迫る。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2001年12月9日

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